yumekyuusaku’s diary

21歳児。無職。だるい。交差点の真ん中でとんぼ返りができたらいいなと思っている。

大学についてニートが思ったこと

僕は昔大学に通っていたことがあるのだけれど、はっきり言ってあまり行く意味はないと思う。まあ、僕が通ってた学校が大した所ではなかったこともあるんだけど。特に文系の学部は社会で役に立つ知識を教える所ではないし、そういう知識を学びたかったら自分で勉強すればいいと思う。というか実質そうするしかない。大学の大衆化ということもあって、それなりに財力があって性格も大人しければ大した苦労もなく大学には入れるようになっている。大学の高校化というのも聞くけど、どっちかというと高校のほうがましな感じがしないでもない。旧帝大はいざしらず、大学出といえば昔は社会を引っ張って行くエリートだったけど、今は中堅以下の大学は社会に学生を送り出すためだけに存在しているような感じ。だから今の大学はまともに落ち着いて勉強できる環境ではない。本当に落ち着いて勉強したかったら東大に行ってください。僕が通ってたようなところだと特に熱心に勉強する訳でもなく、かといってすぐ就職してしまう訳でもないので中途半端に学生という身分でいるだけ。社会は学生に期待を寄せて優秀な人材を求めるけれど、大学に通っていたからと言ったって別に仕事ができる訳でもないし、基本学生はダラダラしている訳だから優秀であるわけない。高校とか予備校とか親とか必死になって有名大学に合格させようとするけど、いったい何を期待しているんだろう。大学は彼らが思っているようなところでは決してない、と僕は確信している。その彼らも昔は学生だったと言うから驚きだ。学生は基本勉強なんてしない。じゃあ一体なんで学校に通っているんだ?いったい何をしているんだ?というとこれは解きがたい謎だ。まあ一つ言えそうなことは人間は人生の中でそんなふうに何もしていない時期も必要だということだ。まるでベルトコンベアーみたいに及第して行って、ロボットみたいに社会の再生産に参加して行くのもありなんだけど、その前に一度立ち止まってなんで俺こんなに頑張ってるんだろう、バカみたいじゃん、と思ってちょっとグレてみるぐらいがちょうど健康的なのだと思う。まあ最近は学生をはやく社会に取り込もうとして、もともとぐうたらしている学生を生産的で効率的な尺度に従うように内面化させようという動きがかなり強くなってきているんだけど。僕はそれはちょっと違うんじゃないかと思う。いろいろ意見はあると思うけど、意味なんてなくっても学校サボってぐうたらしてマージャンして飲んでたりしてもいいんじゃないか?それを大学の高校化と言おうが大衆化と言おうが教養の崩壊と言おうが。結局言いたかったことは受験生は大学入った後に僕みたいに茫然としてどうしていいか分からなくならないために、それほど肩肘張らないでほしいということだ。

感情的な無感動

最近悲観的に現状を批判するよりも、オプティミスティックに考えるほうが得なんじゃないかと思うようになった。それはシニカルに現状を肯定する訳ではなくて。

悲観的に考えようと楽観的に考えようと、現状は変わらない。だったら別に悲観的に考えて自分を追い詰める必要はない。追い詰めようと追い詰めなかろうと外からの評価は一ミリだって変わらない。

今日電車に乗っていてふと気がついた。みんな普段はせかせかと忙しそうに動きまわっているのに、電車に乗っている時は落ち着いているように見えた。彼らが落ち着いているまさにその時、電車は高速で運動している。高速で運動していながら彼らは安心している。そして電車が運動を停止した時、思い出したように降車して、またせかせかと動きまわりはじめる。

何処かに向かって運動している。その限りで安定することができる。安定するためにはつねに運動していないとだめなのだ。

オプティミスティックに現状を追認することは白痴化することと同じだ。

現代では抒情詩しかあり得ない。だからヒステリックに現状を批判してもヒステリーで返されるだけだ。

現代では感情が死んで無機質な理性が生き残ったのか。現状は正反対である。現代では感情しかない。機械的で冷酷な近代的理性が人間を操作して彼らを有機的なつながりから疎外する代わりに、見せかけの感情が彼らを自ら労働に縛りつけるようにさせる。

彼らは自分は充分人間的だと思っている。その限りで彼らは非人間的である。

自分が非人間的であると自覚している人間は、自分の感情は操作の対象でしかないと理解している。しかし自分が人間的だと思っている人間は、自分の倫理観や道徳観を自明の真理であると思い込んでいる。

現代の資本主義は無機質な商品交換によって成立しているのではなくて、人間的な奴隷制度によって成立している。それは自分たちの感情までも商品交換の対象にする意図なのだけれど。少なくも彼らは自分ではそれを意識していない。だから彼らは人間的で倫理的であるというわけだ。

人間は自分よりも一段高い所から俯瞰的に現状を認識することはできない。つねに自分の目線から現状を認識するしかない。だから決断にはつねに跳躍が伴う。

跳んでみてからでしか行動の評価はできないのだ。

ペシミスティクに現状を批判するのもいい。ただそれは感情的に現状を肯定することと隣り合わせである。

オプティミスティックに現状を批判するとは、自分がつねに誤っていると自覚しながら批判することである。自分の存在も、高い所からエピステーメーを突きつけるのではなくて、つねに誤りうる存在として笑い飛ばす。

気をつけなければならないのは、批判的オプティミズムはシニカルに現状を肯定することと同義ではない、ということである。

ニートの持ち物

はじめから失うとわかっていたら、何も持とうとは思わないだろう。

何かを持とうとすることは何かに縛られることだ。いつか失うんじゃないかとずっとビクビクし続けるくらいなら、一気に全て捨ててしまった方がいい。

ギリシャ神話のシーシュポスは永遠に巨岩を山上に押し上げ続ける罰を受けた。巨岩を山上に運び終えると岩は斜面を落下し、またはじめからやり直さなければならないのだ。

現代の僕たちはこのシーシュポスに似ている。いくら積み重ねていっても終わりがなく、そのくせいつか失うんじゃないかと絶えずビクビクしている。

物質的に豊かになればなるほど、現在の快適さを失わないために資本主義体制に依存せざるおえなくなる。生活を豊かにするための技術が逆に生活を操作するようになる。

ジジェクある寓話。ポーランド人とユダヤ人が同じ列車に乗り合わせていた。ポーランド人はユダヤ人にどうしたらそんなに金を稼げるのかと聞いた。ユダヤ人は教えて欲しければ3シリング払えと言った。

ポーランド人は3シリング払った。ユダヤ人はそこでとりとめないことを話はじめ、ちょっとたったところで話しを止め、続きが聴きたければもう3シリング払うように要求した。

ポーランド人は仕方なくもう3シリング払ったが、ユダヤ人はちょっと話したところで話しを止め、また3シリングを要求して、、、

とうとうポーランド人は怒りだし、言った。「お前だって何も知っていないんじゃないか‼嘘つきめ‼」

僕たちはこのポーランド人と同じように、存在しない幻影を恰も存在しているかのように錯覚している。ユダヤ人はそもそもはじめから何も知らないのだ。ユダヤ人を金持ちにしているのはポーランド人自身、つまりポーランド人がユダヤ人に投影している想像がポーランド人自身に働きかける行動の仕方である。

王サマが王であるのは、彼が王であるからではない。臣下が彼を王と思うから王であるのだ。それを臣下は彼が王であるから我々は臣下であるのだと錯覚している。

実際には存在していないのだ。それを恰も存在しているかのように振る舞うことに虚偽意識はある。

ものを所有するということは本当は何も所有できないことの証明なのだ。ものの所有はものへの疎外、物神崇拝を生み出す。それはものの所有者であるはずがものの従属物に転落することだ。

自分は持っている、自分は裕福だという意識は、実は丸裸だと宣言しているに等しい。ものを多く所有していることの優越感は、ものへの偏執的な執着、ものへの永続的な隷属を意味している。それはつねにいつか失うんじゃないかという恐怖と隣り合わせである。それは隷属であり、崇拝である。

自分はものによって護られているという意識は、自分はものはよってしか護られていないという恐怖と隣り合わせである。鋼鉄の鎧で護られていると意識しているが、実は柔肌をさらけ出した最も傷つきやすい存在なのに。

僕たちは今の生活を失うんじゃないかとビクビクして、現状を変えられないでいる。今よりもっと悪くなるんじゃないかと脅えている。それも現在の生活がどんなものであるのか理解せずに。現在の生活がましなものであると、耐えられるものであると思えるのは、現在の物質生活レベルを失ったら絶望しかないと信じ込んでいるからだ。物質的な豊かさ以外で豊かさをはかることが不可能になっている。そもそもそれ以外の可能性が想像できないのだ。だから嫌がおうでも現体制にしがみつくことになる。それが他人を、人口の数%を、死に追いやることになっても。自分だけは護られていると思っているから。

現状を正しく理解しているなら革命しかないと思う。誰かこの体制を降りた人、こんなクソゲーやってられんと匙を投げた人、この社会ではとても生きていけないと思っている人は僕に連絡してほしい。

ニートとプロレタリア

町を歩いていると働いている人によく出会う。働いている人に出会うと僕は決まりが悪くなる。だからなんとなく外に出るのに気が引けてくる。

たまに忙しくもないのにせかせかしてみたり、活動的で意欲的な人間であるように見せるために嘘をついたりする。そのたびに自分が嫌になる。

でも嘘をつかないわけにはいかない。そうしないとこの社会では生きていけないから。

自分でも嘘を信じ込まないといけない。嘘は内面化されて嘘が嘘であると認識できなくなる。そこまで嘘は完成化される。

僕は自分を売り込むために、高く評価されるために、自分をインテグレートしてきた。昨日の自分よりも今日の自分を、今日の自分よりも明日の自分を、進化させるために自分の経験を積み重ねてきた。そうすることで賢くなると思っていた。

でも僕より前にそこを通過していった人はいくらでもいる。結局自分をよく見せようと思っても、誰かの二番手でしかない。だから僕は何もかも捨て去ってしまおうと思った。プライドとか地位とか捨て去って、社会の底辺で完全にフリーになろうと思った。

でも完全にフリーになることなんてできない。どんな所にいても、どんなことをしていてもインテグレートの呪縛からは逃れられない。

インテグレートするしかないとしたら、結局誰かの二番手に留まるしかないのだ。それだったら何もする意味がない。だから何もすることができない。

情報が多いことは本当にいいことなのだろうか。僕らは賢くなろうとして情報や知識をため込むけれど、そのぶん本当に賢くなっているのだろうか。

知識を得るためにお金を払ってスクールに通う。より多くのことを知っているために本や雑誌から知識を借りてくる。でもお金やものを所有したところで別にそれだけ賢くなるわけではない。知識を所有していることは知性があることとイコールではない。

ものごとの本質を理解するためには、何も所有していてはいけないのだ。つねにゼロから考えていかなければ本当の理解にはたどり着けない。僕はそう思う。

だから知識を求めるために知識をため込んだり、自分を持ち上げるために経験・知識を積み重ねていってはいけない。それは偶像崇拝だ。

プロレタリアートとは労働者のことだ。だからニートとは違う。ちゃんと働いて自分ののりくちを稼いでいるし、自立している。それに相応の社会的地位もある。と思う。しかしプロレタリアートの本来の意味とは、自分の肉体以外に売り出す商品を持っていないということ、つまり自分の肉体以外に何も持っていないということである。

何も持っていないということ。それがプロレタリアの本来の条件だった。だから僕はニートとプロレタリアは案外近いところにいるのではないかと思う。何も持っておらずどこからも疎外されているということ。それはニートとプロレタリアの本質を規定している与件である。

知識を求めるために知識を蓄積することは、それ自体が偶像崇拝につながるという逆説を含んでいた。だから本当にものごとを理解するためには、何も持っていないということ、何も知らないということでなければならない。だからぼくはニートとプロレタリアは(わずかながらでも)希望を託せる主体であると思っている。

ニートと夢について

最近雨が降り続いていたせいか、ずっとぼーっとしていた。何もせずぼーっとしていると、脳が溶けていくような感じがしてくる。一日中寝ているとたまに夢か現実かわからなくなる。夢をみながら現実のなかにいるような感じがする。

現実は夢なのかもしれない、そう思うこともある。本当は夢の中の出来事のほうが現実よりも本当のことを語っているのではないか、そう思うことがよくある。

僕は乱視だ。なにか一点をずっと見続けると輪郭がぼんやりしてきて対象を捉えられなくなる。意識を集中して見つめれば見つめるほど、見つめられるものはぼんやりしてきて、意識から逃れていってしまう。

起きている時、夢から覚めている時、僕らは意識を保ってはっきりと思考していると思っている。でも実際は起きている時のほうが催眠状態なのかもしれない。

昔の人は霊媒を用いて占いをした。例えばよく眠りにおちやすい子供を用いて神の声を代弁させた。よく眠りにおちやすいということはそれだけトランスの状態になりやすいということ、つまりそれだけ神が乗り移りやすい性質であることを意味した。

眠りにおちやすいこが、それだけ神に近づくことのできる条件だった。つまりぼーっとしやすいことがそれだけ真理に近づける条件だった。

今の社会では意識して考えれば考えるほど、それに見合う報酬が得られると考えられている。夢から覚めた意識が活動すればするほどそれだけ現実に対して働きかけられる。つまりそれだけ自分の意識が現実的で確かな存在である(現実的で確かである分だけ真理に近いことの証拠である)、と考えられている。

人間は意識して考えることで真理に到達しようとしてきた。考えて考え尽くすことで最後の一片まで真理を知り尽くすことを志してきた。

だけど真理を求めて考えること自体、最後に完全な真理があることを無条件に前提している。つまり真理を求めて考えること自体、一つの夢なんじゃないだろうか。そんな疑いがある。

真理を意識して考えることが真理にたどり着く条件でないとしたら、どうだろう。僕らはどんなことを知ることができるのだろうか。

「現実は夢。夜の夢こそ現実。」と言ったのは江戸川乱歩だったか。僕らはまったく意識しない限りで本当のことを知ることができるのではないだろうか。

人間は眠りにおちている時に覚醒している、夢の中にある時にまさに<現実>を見ている。

現実をつねに捕らえ損なうことによって、僕らは<現実>をみることができるのではないだろうか。現実がまさに現実として現前しない限りにおいて<現実>をみることができるのではないだろうか。

意識してみればみるほど、ものの輪郭はぼんやりとして捕らえられなくなる、と言った。逆説的だけれど、意識せずにものの輪郭を捕らえ損なうことがものをみることのできる条件なのかもしれない。

意識してみることはやはり歴史の目的に内属してしまう。眠りながらみることでしか歴史を突き抜けてみることはできない。

目覚めてはっきり思考している(と思っている)ときは、本当はまどろんでいるのだ。現実という殻を突き破って本当のかたちをとらえるためには、眠っていなければならない。なぜなら人間は夢を見ているまさにその時こそ覚醒しているのだから。

がんばるニート達へのメッセージ

むかし内田樹さんの本のなかのどこかで読んだことがある。

内田さんは合気道の道場を開いているんだけど、むかしまだ内田さんが合気道を学ぶために弟子入りしていた頃、一人の兄弟子がいてその人は合気道の師範からもっと上のクラスに入るための試験を受けるよう促されていた。しかしその人はまだ自分はそんなレベルじゃないから試験は受けられないと断っていた。結局内田さんは試験をパスしてどんどん上のクラスに及第していくんだけど、その人は試験を断り続け一番最初のクラスのままだった。まるで何かのスイッチが入ったようにその人は成長を止め、フリーズしたように同じところに留まり続けた。

たぶんその人は自分はまだ上に行けるレベルではないと信じ続けた、そのことが本当に現実になってしまったのだと思う。彼は前に進むことが許されていないと信じた。だから彼は前に進むことができなかった。

 

ニートについて思うことは、何かのスイッチが入って、僕らはフリーズしてしまって、行動することが不可能になっている状態ではないだろうか、ということだ。

どんなスイッチが?と思う。

人間は目的があるからそれに向けて運動していくことができる。目的は誰もが簡単に到達することができるものであっては困る。なぜならそれは人間がその完成に向けて運動していく理念でなければならないからだ。だからそれは完成されることが許されないものという意味で不在である。

現代社会では自分でつくった目標に自分を到達させなければならない。つまり不在であるはずの目的を自分がつくりださなければならなくなっている。だから現代社会ではどんな行為も偽りである。それは自らがつくりだした幻想でしかないからだ。

ニートたちはそのことを直感的に理解しているのではないだろうか。不在であるはずの目的がずばり言い当てられてしまっていることが僕らの行動を不可能にしているのではないだろうか。

僕はニートに希望を持っている。なぜならニート達は現代社会が虚構でしかないことを理解しているからだ。現実をラディカルに変革していく主体はニートでしかありえない。ニート、この怠惰で不真面目で気まぐれな神々が現実を転覆する。

現代社会にはたくさんのスイッチがあると思う。僕はそれを一つずつ破壊していってやろうと思う。能力とか努力とかで神秘化されている幻想を全部ひっぺがしてやろうぜ。それで現体制でデカイ顔してるヤツラをおおっぴらに馬鹿にしてやるんだ。王サマは裸だ。

もっとワケガワカラナイものを増やしてやるんだ。意味とか目的とかに回収できないものをもっと増やしてやるんだ。ヤツラに取り込まれるな!ヤツラはどんな手段でも使って僕らを懐柔してくるぞ!どんな理解も追いつけないようなスピードで不条理、無意味、説明不能を叩き出すんだ。これしか方法はない。これしか出口はないんだぞ!僕らが生きていけるような本当の自由の王国を打ち立てるには。さあ!ニート達よ!立ち上がれ‼ここがロドスだ‼ここで跳べ‼!‼

ニート 歴史革命テーゼⅤ

革命は100%成功する。なぜなら革命の瞬間において人間は神をその身に引き受けるからだ。革命の瞬間において人間は歴史に内属する客体から歴史を動かす主体に飛躍する。人間は神がいる限りで、目的が設定されている限りで、終局的な視点から歴史をふりかえることが可能だ。超越的な視点から歴史を見下ろすことができるのは、人間が歴史の中に内属しているからだ。終局的な視点が設定されている限りで人間はその目的に向かって、その目的を意識して、歴史を鳥瞰的に解釈できる。人間の意識が歴史の流れの中でちゃんとした位置を認識できるのは、歴史が閉じられた枠組として意識を包みこんでいるからだ。

革命の瞬間において革命の主体は歴史から目的を叩き出す。つまりそれは自らの意識を成り立たせている終局的な意味自体を叩き出すということだ。だから革命の瞬間において意味は不在になる。そして意味は革命の主体が自分自身に引き受ける。

意味の不在が意味の生産の条件だった。ここにおいて意味の不在は意味の飛躍に転換する。

意味の不在がその不在の意味を求める絶えざる運動を可能にした。不在の意味を求めることはその不在の意味を絶対化し、はるか雲の彼方に高めてしまうことを意味した。今度は逆だ。不在の意味をそのはるかな高みから引きずり出し、意味を追い求めることから意味を飛躍してゆくことに転換するのだ。

革命の前において革命が成功する確率は0%だ。しかし革命の飛躍を遂げた瞬間に成功する確率は100%に変化している。――崖を想像してみよう。その崖は自分一人が立っているのがやっとの断崖絶壁だ。しかもまわりは真っ暗闇でまったくなにも見えない。足場は刻一刻と崩れている。一刻もはやく向こう岸に跳躍しなければならない。しかし成功する確率は―――――ほとんど0%だ‼!どうだろうか?跳べるだろうか?目盲滅法に跳んで成功する確率などまんに一つでもあるだろうか?しかしあなたは跳ばなければならない。そうしなければどのみち足場はなくなり転落する運命だ。さあ、跳んでみろ!ここがロドスだ。ここで跳んでみろ‼!命がけの飛躍――――――この瞬間に成功する確率は―――――0%から100%に転換する!飛躍した瞬間にこの世界を決定していた歴史の運命自体が消滅するのだ。この世界を構成していた言語自体が転換するのだ。だから革命は100%成功する。革命の前後において世界の原理は根本的に変わっているのだ。革命の前にその正否を検討することはできない。何故なら革命の瞬間において革命は歴史の内属を打ち破ってしまっているから、正否の判断基準となる歴史の目的自体無効になるのだ。

そして革命の主体になりうるのは――――ニートでなければならない。なぜなら彼らは現体制下では根本的に生存不可能だからだ。彼らは現体制下でどんな意味も与えられない。いわば空気みたいなものだ。その存在が根本的に否定させている。ほとんど無だ。だからこそ現体制下で説明困難なこの存在はラディカルに現実を転覆する潜在力を持つのだ。現体制下ではどんな枠組にも組み込まれることがなく、どんな肯定的な説明も与えられないという存在かのありかた自体が、現体制からはみ出た過剰として現体制を転覆し、現体制の存立の根拠を問うてゆくことを可能にするのだ。彼らは直感的に認識しているはずだ、現体制は虚構であり、そこに参加することは根本的に不毛だ、と。

彼らはなにも持っていない。ただ彼ら自身であるだけである。持っている、ということが考えることを不可能にする。考えるためにはなにも持っていてはならない。知識を持っている、とは矛盾だ。本当の知性は思わぬところからとんでくるものを受けとることだと思う。と同時に考えるためにはつねに疎外されていなければならない。なぜならはみ出しているという存在のありかたが、積極的に意味を生産してゆくことを可能にするからだ。