ニート 歴史革命テーゼⅣ
つまり現代社会は自由である、だからどんな行為も不可能である。
自由は自由であるように演じなければならない。どんな純粋な行為も不可能である。なぜなら不在が存在しないから。不在を埋め合わせるように自らが不在をつくりださなければならないから。不在の不在のうえで自らの自由を不自由にダンスしなければならない。自由であることが強制されている。それも自由な監視つきで。自由が人質にとられている。自由でないと処刑するぞ、ここまで取りに来い、と脅されながら。僕らはびくびくしながらその自由をありがたく受け取りに行く。自由はありがたい、とうつむいて呟きながら。自由な意思でそれを受け取りに行く。自発的に動かされながら。自発的に処刑台にのぼってゆく。そんな人間が歴史上存在しただろうか⁉!
現代ではどんな純粋な行為も不可能だ。ではどうすればいい?僕らは神がいないと自分では信じている。だから神が存在してしまっている。神の代役を引き受けることで神を絶対の高みに引き上げてしまっている。神の高みから見下ろした視点で物事を把握している。僕らは神の視点から自由な意識を享受している。神の存在が僕らの意識の存立を可能にする。
だったら神を呼び戻してやればいい。神の存在を、そのあられもなく破廉恥なありのままのすがたを、公衆の面前にさらしてやればいい。そもそも言い当てることのできない不在を言い当てるように強制されているからどんな行為も不可能になるのだ。不在でなければならないところを自らの存在で埋め合わせようとするところに矛盾があるのだ。つねに目的の王座は空位でなければならない。それだから人間は不在の目的を探し求めて生きてゆくことができる。現代社会の不可能、それは不在であるはずの目的を自らつくりだし、それに向けて自ら自己運動しなければならないことである。それは神がはるかかなたにまで遠退いて消失してしまうことによって可能になる。だから神は消えていると同時に現れている。自らが目的の奴隷となるためには自らが目的をつくりだす神とならなければならないのだから。ここにきて人間は神を追放しながら神に執着しているのだ。自らが生きてゆくために、自らが目的を求めて進んで行くことができるように、追放したはずの神に恋い焦がれているのだ。だから現代社会では純粋な行為は果てしなく困難だ。なぜならそれを求めての行為であるはずの不在が言い当てられてしまっているから。それは不在をつくりだした自らに目的が回帰してしまうことだ。目的は永久の彼方から照らしだす言及不可能な何者かでなければならない。その目的が自己回帰してしまっていることはどんな行為も偽りになることを意味する。なぜなら言及不可能なはずの目的を言及しているから。不在が存在に反転しているから。
現代社会では神がいないと信じている。だから神が存在している。ならば反転させて神を現せたらどうか。神を永遠の相において崇めたてるのではなく、神をありのままのすがたで神秘の雲の中から引きずり出すのだ。神の本来のすがた、つまり不条理、偶然、無意味、説明不能をありのままのすがたで突きつけるのだ。現代社会では全てが説明され過ぎている。だから自らが神であると同時に神を探し求めなくてはならなくするのだ。逆にどんな説明も受け付けないまったくの無意味な不条理を突き付けたらどうだろうか。意味に回収できない、サーキットに組み込めない過剰を現代社会の神である人間に突き付けるのだ。現代社会は全てが正確に言い当てられ過ぎている。正確に言い当てなければならなくなっている。だからどんな行為も偽りになるのだ。言い当てることが不可能な何者かを逆に突きつけてやる。そうすることでしか本当に自由な行為、本当に純粋な行為は取り戻せない。
革命を起こそう。資本主義はもはやその存在根拠を失っている。資本主義はその存在のエートスである不在の何者かをすでに食いつくしてしまった。現代の資本主義は目的もなくただ自己運動をしているだけである。王サマは裸だ。
本当の自由を取り戻すには革命しかない。革命を起こすためにはもう一度失われた神を連れ戻す、つまり現代社会に説明不可能な空隙を穿つのだ。ワケガワカラナイものをもっと増やしてやろう。もっと人達を混乱させてやろう。秩序のかわりに無秩序を増やそう。決して資本主義に取り込まれることのない無意味を突きつけよう。気をつけてほしいのは、資本主義はどんな無秩序や無意味も意味にかえてその自己運動に取り込んでしまうということだ。だからその無秩序や無意味は根本的に言及不能な不在でなければならない。それは意味が存在だ。不在を言い当てることはできない。それは根本的な暴力だ。どんな意味もゆるさないから。
ニート 歴史革命テーゼⅢ
まえに資本主義の成立にとって宗教、とくにカルヴァン派の影響について話したけど、現代では神が究極まで遠退いてほとんど見えなくなっている状況だと思う。
カルヴァン派の教義のところで人間がどんなに努力して神の気にいられるように行為したところで神の意図に影響を与えることはまったく出来ないと話したと思う。つまり神の救済の対象はつねにすでに人間の意図に先だって決定されていて、人間がどう意識的に行為しようと神の意図に影響を与えることはまったくもって絶望的だということだ。
だからここでは神が人間から限りなく遠退いてしまっている。
例えば人間が善行を積んだらそれだけ天国に行ける可能性が高まるとしよう。
その場合神は人間からそれほど遠いところにある訳ではない。
なぜなら人間の意図で神の意図を操作することが不可能でなはないからだ。
神が人間の意図によって影響可能だということ、つまり神が人間の意識にはっきり現れていることで、神は人間からそれほど離れていない、つまり人間は神の一部を引き受けることができるといえる。
逆に神が人間からはるか遠くにいる場合はその分だけ神は絶対的である。
神のすがたが人間の意識にはっきり現れない、人間のどんな意図も神の意識に影響を及ぼすことができない、ということは神がそれだけ絶対的である、つまり神が人間から絶対の高みにいるということである。
神が絶対的であればあるほど人間から遠ざかってしまうということ、つまり人間の意識から離れていってしまうということ。
ここでこの神と人間の関係の相反は極大化する。
つまり神が絶対的であればあるほど神が遠ざかってしまうということ、神を崇めれば崇めるほど神は人間の意識にのぼることが不可能になってしまうということ、このことによって神はその究極において人間の意識からほぼ消失する点まで退行する。そしてこの点(vanishing point)において神は限りなく完成体になる。
(神が完成してしまうことは許されな。なぜなら神は未完成であることで存在することができるからである。神とは不在のことである。つねに存在していないことが神の存在条件である。つねに意味が不在だから人間はその意味を求めて生存してゆくことができる。もし意味が完全に与えられてしまったら、人間は意味を求めて生存してゆくことができない。つまり神の完成が人間の存在の不可能性を言い当てる。)
神の限りない消失が神の究極のすがただとすると、神は存在しないという意識が逆に神の存在を証拠だてる。
神の限りない不在が神の限りなく確かな存在証明になる。
つまり神は存在していないという否定の身振りが神の存在を言い当てている。
現代社会はこの神の存在が究極まで退いてしまった世界だと思う。
神は存在しない。だから僕らは自由だ。自分の考えも自分の意識もこの史上最大の存在である自分の管理下にある。しかしその意識は神が存在していることで吊り上げられたものだ。神が絶対的な高みに遠ざかっているから人間は自分が自由の下にあると意識できる。史上最大であることがすなわち史上最小となる。
だから現代社会では人びとは全てを正確に言い当てようとする。
神が究極的に遠ざかってしまったから自分達は神の代役を努めなくてはならない。つまり自由な意識を持った存在として僕らは神の意図を最大限で再現しなければならない。だから僕らは神から限りなく遠ざかっている限りにおいて神の影響から逃れることができない。
僕らがどう行動しようとそれは終局的な目的、神の視点から構築された結果の再演でしかない。
神はいないから僕らが神のかわりを演じよう。この時僕らは神の存在を言い当ててしまっている。
神の意図は絶対的に知ることはできない。このことが神の存在を可能にした。神の意図など理解できないから、神の存在が絶対の高みあるから、人間は神の存在を確かに感じ、神の意図を近づけないものとして想像することはできた。
ところが神が消失した時点で言い当てることができないために語ることが可能だったその不在が、今度は逆に存在してしまっている。つまり神に限りなく近くなった人間が神である限り、神の存在が不在であってはならない、神の存在が説明不可能な何者かではあってはならない。
神は全知全能だ。だから説明不可能ではあってはならない。神の存在は不在を根拠にしているから神の存在を証明することは不在を証明することになり矛盾する。言い当てることができないものをまさに正確に言い当てようとする、そのことが語ることを困難にしている。全て完全に正しく行動しようとすることが行動を困難にする。全てを完全に説明しつくそうとすることが説明を困難にする。
民主主義や資本主義は消失してしまった不在の神の代わりに自らが神の代役をつとめようとする繰り返しだ。
民主主義や資本主義の困難は本来言い当てることのできない自らの存在を言い当てなければならないことの不可能性にある。
民主主義では多数決で最も合理的な結論を理性的な討論で導き出せるはずだと想定する。しかし完全に正しい結論など不可能である。最も合理的であろうとすればするほど合理性は遠ざかってしまう。この時、合理性は絶対の高みに遠ざかって人間をそれに向かって駆り立てる理想と化す。合理的であろうとすることが合理性を絶対化し、合理性を不可能にする。
資本主義が停滞しているのも決して資本主義が失敗しているからではない。
資本主義はまさに正しく機能しようとするがゆえに停滞を余儀なくされる。なぜなら自らが神であってしまうから、自らが目的を達成してしまっているから。不在の何者かに向けての運動が、自らが不在の何者かを演じながら自らをそれに向かって駆り立てなくてはならなくなる。資本主義は不在の何者かを全て食いつくしてしまった時、その成長を止める。資本主義は終わりのないサーキットだ。自らが役者でありながら観客でなければならないような不可能性として。自らの手段が目的であるような同語反復として。
ニート 歴史革命テーゼⅡ
前に書いたことだけど、ヴェーバーは資本主義の存立にとって宗教、特にカルヴァン派の影響を重視していた。
カルヴァン派の教義とは自分たちの運命は神によってすでに決定されている。だから自分のなす事は全て神によって自動的に操作されたものでしかない。よって神の意図の下にあるかぎり自分達は自由に貨幣を蓄積すること自体、自動的に操縦されてあるのだ。ということだ。
資本主義には欺瞞があると思う。つまり自分達は自由に資本を追求しているのだという意識である。
本当は終わりなく資本を追求することを命令されているのではないだろうか。自由に貨幣を蓄積すること自体命令されているのではないだろうか。
つまり人間は神という終局的な天井が設定されている限りで自由に振る舞うことができるのではないだろうか。
自由であるということは自由であるように演じることではないだろうか。
終局的な神の視点からみて人間の意識は合理的に説明可能になる。
人間の自分の考えは自分で決定しているという意識は神が存在して、つまり最終的な目的があることで維持できているにすぎない。
人間の中心は人間自身ではなかった。
資本主義の下での自由、それは自由であることを強制されていることでの自由である。
実際には僕らは自由に選択しているように演じることを強制されている。
本当の僕らの意思は不在なのにあたかも自分から欲求されたかのように演じている。そしてそれが自分から欲求されたことだと自分でも信じこんでいる。
神という終局点が存在することで人間の意識は保たれることができる。
もし神が存在しないならば人間は意味を生産してゆくことができない。
つまり生存不可能だ。
神というのは虚焦点だと思う。
存在していないことが存在条件であるような存在。
人間はつねに意味が不在だから意味を求めて活動することができる。
絶対に言い当てることができないから終わりなく話し続けることができる。
パズルのピースはつねに足りない。
パズルが未完成だから、パズルのピースがつねに1つ足りないから、僕らはその最後のパズルのピースを探し求めて、意味を生産してゆくことができる。生きてゆくことができる。
未完成であることがつねに完成を求めて刷新してゆくことを可能にする。
だから僕らの世界はすでに完成体である運動体であると言えるかもしれない。すでに決定されてある限りで運動してゆくことができるという意味で。
ニート 歴史革命テーゼⅠ
僕は書くことが苦手だ。
何か意識を集中してものを書こうとするとすぐに挫折してしまう。
だから僕はものを書くときはなるべく頭を空っぽにしてなりゆきまかせで書くようにしている。
ものを書くということは頭の中の考えを紙(または液晶ディスプレイ)に書き写すことだから、空っぽの頭から何か考えが出てくるなんて矛盾しているかもしれない。
でも頭の中の考えをそのまま書き写そうとするとすぐに行き詰ってしまう。
僕が考えていることとはどこか違うような、まるで嘘を書いているような感覚におそわれる。
たまにむちゃくちゃに、読まれることなんて意識しないで書きなぐった文章のほうが物事の核心をついているような時もある。
頭の中を空っぽにして成り行き任せで書くなんて責任放棄だといわれるかもしれない。
でも僕が書き写そうとしている考えなんて自分一人で考え付いたことではなくて他人の言葉だったり、まわりの環境だったりが影響してつくりあげられたものであって自分一人の専売特許ではないし、そもそもものを書くという行為自体まわりからの影響に触発されて周りの人に考えを伝えることであって、世界という大きな運動のなかのひとつの流れみたいなものといえるかもしれない。
そう考えると僕の考えや僕の意識を意識していることなんて虚妄だし、それを全部意識したまま書き写すこと自体、僕の意識を超え出てしまっているから、いざ書こうとするとフリーズしてしまう。
書くという行為自体、僕の意識から超え出てしまっている。
その文章を書いている筆者自身でさえ自分が何を書いているのかを理解できない。
書かれた言葉は書かれた時点でその筆者自身の手から離れていく。
筆者自身の手で書かれながら筆者は自分の言葉の意味を把握しきれない。
自分の手で書かれながら自分の意図の外にある言葉。
自分が考えなかったことを自分が話してしまっているという行為の不可思議。
つねに僕の意識は僕の意識の範囲外であると思う。
だから僕らはみんな霊媒みたいなものだと思っている。
みんな自分の言葉で話している。でもその言葉は自分の意識を超えたところからやってきている。みんな自分の意志で話していると思い込んでいるけれど、実際はどこか意識を超えたところから話されているのだ。
書かれた言葉は書いた筆者自身でさえ何が書かれたのか把握しきれない。
だからその言葉を読む読者は筆者の意図を正確に読み取ることなどできない。
筆者自身の意図が不在なのだから読者自身で筆者の意図を想像するしかない。
読むという行為はどこにもない言葉の意図を想像することだと思う。
文章というものは意図が不在だから意味が欠けているから、意味を想像したり解釈したりできるのだと思う。
すべてがかっちり決まってしまっている文章などありえないし、そんな文章はどんな意味もどんな解釈も許さないだろうとおもう。
つねに不在の何者かに席をとってあること、そのことによって文章は意味を生産してゆくことができる。
意味が不在だということ、そのことが書かれたものの意味を可能にする。
生産的な文章とは意味が不在であることによって、つねに読者に意味が開かれているものだ。
せめて人間らしく
今日町を歩いていたら募金箱を持ったひとに声をかけられた。
熊本地震の義援金集めをしていたんだけど、僕はまるでなにも聞こえなかったかのように素通りした。
カンボジア人の青年に声をかけられたこともある。
その人は手帳を持っていて、それには寄付した人の名前とともにカンボジアの子供たちの写真が貼りつけてあった。
カンボジアの恵まれない子供たちのために寄付してほしい、ということだった。
僕はその時、今は持ち合わせがない、またあとで払うとかいってごまかした。
本当はお金あったんだけど。
自分でもサイアクなヤツだと思う。
僕はよくマックに行って一杯100円のコーヒーを頼んで長居をするんだけどそのことがうしろめたい。
マックの従業員とかは低賃金で長時間働かされているのに100円ぐらいの料金しか払わない僕みたいな客にも過剰なサービスをしてくるからだ。
それはわざわざ作り笑いをしたり、必要以上に気を遣ったり、すれ違うときに「失礼します」とか言ったりすることだったりするんだけど。
べつに迷惑なんてかかってないし、謝る必要なんてないし、そこまで客につくす必要なんてない。
むしろもっといいかげんなほうが安心する。
もちろん人間同士気づかいは大事だと思う。
でも客と従業員との関係にはいることでしか人間同士のつながりを感じられないということに何ともいえない息苦しさを感じる。
実際、従業員の人も働いている間だけそのように振る舞うのであって、道で僕と出合っても気にもとめないだろう。
道を歩いていてよく思うのは、みんなお互いに無関心だということだ。
みなお互いに忙しそうにせかせかと動きまわり、お互いにいかに相手に対して気がなく無関心であるかを見せつけ合う。
そのくせ客と従業員の関係にはいると魔法にかかったように人間的な関係性を演じはじめる。
お金を払ってやっているから、客だから自分はサービスを受けて当然なんだと思っている人は、逆に自分が奴隷の立場に立たされることを想像したほうがいいと思う。
人間の関係が金銭的な理由で決まるとき、なにか決定的に大事なものが失われてしまうと感じる。
もっといいサービスを受けようと思って、もっといい生活をしようと思って、僕らはお金を払う。
それで僕らは幸福になった気になる。
僕らは既製品の幸福を所有することで幸福であることを確認する。
自分はこれだけ幸福である徴を持っている、だから自分は幸福なんだ、と。
高級車を所有したり、大きなテレビを持っていたり、ディズニーランドにいったり。エステしたり。
でもその幸福はつくられた幸福だ。
実際には幸福であることを信じこまされている。
幸福であることを強制されている。
これこれのものを所有している。だからお前は幸福であらねばならないんだ、幸福でないのは間違いなんだ、と。
自分の最も内面的な感情までもが強制されたものでしかない事実。
自分の主人が自分ではなかったという裏切り。
いまこうしているうちにも世界のどこかで恵まれない子供が餓死しているかもしれない。ハンバーガー1つぶんのお金で10人の小さい命が救えるかもしれない。
生きている実感。
希薄な存在。
働くことのうしろめたさ
働くことが後ろめたい。
本当に自分は働いてしまっていいのだろうかとよく躊躇する。
自分には働く資格なんてないと思う。
別に好きなことがあるわけでもないし、その仕事に熱意をもって取り組む気もさらさらないのだから、企業にとってもこんな奴はさっさとやめてもらったほうがいいと思うだろうし、そのほうが僕自身のためにもなると自分でも思う。
会社に入って働くことでしか仕事ができないということに何とも言えない息苦しさを感じる。
会社とか役所とかNPOでもいいんだけど、そういう組織は何らかの目的を設定してその目的のためだけに人間を駆り立て、目的に合うように人間を成形し、目的に達するように合理的に設計された経路を最短で辿るよう人間に強いる。
寄り道やよそ見は許されない。
もはや偏執的に正しくあろうとし、十分すぎるほど世間的に見て”正しい”人間なのにそれでも自分の正しさを信じ切れず、飽くことのない”正しさ”を求めて止むことなく自らを疎外し続けるように人々を駆り立てる社会。
それでしか自分の存在を確認できない、自分を肯定することができなくされている。
自分の存在の肯定を求めることでますます自分から疎外されてゆく二律背反。
会社や組織に所属していることでその人はニートに比べて相対的な安定と満足と自己承認を得られるかもしれない。しかしその人は永久に”正しさ”にたどり着くことはできない、つまり永遠に疎外され続ける。
永遠の奴隷であることがすなわち他人の主人となる条件であるという論理的矛盾。
前の記事にも書いたけど(第三回 働きたくない)意識的に作業したら人間は最高のパフォーマンスを発揮することができない。
マスコミとか専門家とかが何か社会的な問題を取り上げて議論しているけど、結局その人たちもある企業なり組織なりに所属していて、その組織に所属している範囲内で妥協的に捏ね上げられた言説を発しているにすぎない。また、その組織に入るために彼らはライバルを蹴散らしてきたという動かしがたい事実がある。
自らの社会的存立条件が彼らの発言を限定づけているのにあたかも彼らの言説が無色透明で万人に当てはまるかのように機能させている。
彼らの存在の与件が彼らの発言を方向づけているのにあたかも彼らが自分の意志で自由に発言しているかのように演じている。
彼らの社会改革的な提言が社会改革的提言をするという職業目的からうまれた提言であるという欺瞞。
働くとはどこかに所属することだろうか。発言するにはどこかに所属していなければならないのか。
知性とは存在だと思う。今現在の存在が、存在と現実との落差が、知性をかたちづくる。
どこかに所属してしまったら、それで安心してしまって何も考えなくなってしまうのではないか。どこかに所属しているという安心感、目的が与えられているという充足感が思考を限界づけ、考えることを不可能にするのではないか。
たぶんもし僕が会社にはいって30年もたってしまえば、会社で働くのが当たり前だと思うようになるだろうし、今現在の僕のような若者を見つけたら説教臭くふらふらしてないで働けと言うだろう。
それはある意味仕方がない。
彼(未来の僕)の存在している条件が働いて組織につくすことを当たり前にしてしまっているからだ。
結局人間は彼が属している枠組の中でしか考えられないのだと思う。
跳ぶ前に見ろということわざがある。
大江健三郎の小説にそれをもじった見る前に跳べという作品がある。
見田宗介はまなざしの地獄という論考のなかで考察対象である殺人者の青年Nの状況を評して常に跳ぶことを強いられてある存在だといい、見る前に跳べなどという言葉は跳ぶ前に見ることができるもののいいぐさでしかない、と言っている。
実際僕らは常に跳ぶ事を強いられているんじゃないか?
跳ぶ前に見る事なんて不可能なんじゃないか?
僕らの存在の在り方がつねにすでに僕らの存在を規定している。
僕らの存在の在り方が僕らの意識につねにすでに先だっている。
僕はまだいろいろ感じていたいし、まだ生きていたい。
もう死んだように何も感じず、ただ慣習に従って亡霊のように感情を失なって生きていたくはない。
働くことには後ろめたさを感じる。
それは働くことによってたった一度きりの人生に対する疑問とか意味とか、そういう本当に僕らにとって大事な問題を忘却して、目の前のすでに答えの与えられている作業に自分を逃避させることで安心と満足を作り出してしまうからだと思う。
だから本当に与えられている問題に真摯に答えようと思ったら、苦しくて終わりが見えないけれどそれだけ僕らの存在の不思議が解明されるような道を選ばなければならない。
本当に創造的な仕事は無意識的にしかできないと前に書いた。
本当に与えられている問題にも簡単な答えなんて設定出来ない。
答えのない問いを苦しみながら解いていくしかない。
それなのにこの世界は今すぐにでも回答を出すよう僕を急かす。
そしてすでに完成されていることを前提にしている。
だから僕は何も出来ない、その資格がない。
働きたくない
ボリビアには海軍があると聞いたことがある。
ところでボリビアには海がない。
その昔ボリビアは太平洋の海岸線にまで国境がせりだしていたそうで、いつの日か海を取り戻した日に備えて日々海軍は訓練を積んでいるそうだ。
なんという苦しみだろう。
ボリビアの若い海兵隊員はいつ本当に役に立つかも分からないような実戦訓練を繰り返して日々不毛な儀式を演じ続けていることになる。
なんという疲労だろう。
無意味とわかりながらも延々と不毛な作業をあたかもとても意味のあることのように自分に信じこませ、無理にでも演じ続けなければならない桎梏。
それが彼らの存在条件だから。
存在の無意味が存在であるような存在。
Phaさんが言っていたことだけど、フローという概念があって、かなりいいかげんに説明すると、人間はそのいましている当の行為を意識していないときに最高のパフォーマンスを発揮するらしい。(「ニートの歩き方」p141~p148、技術評論社、2012、pha)
つまり意識的になにかを成そうとしたその時点で本当に創造的な仕事は不可能になっているということだ。
なにかするにも理由がないとなにもできない世の中になってきている気がする。
なにもかも理由に回収されてしまっているといえるかもしれない。
みんな最終的な目的に向かって最短距離を無駄なく間違いなく突き進もうとあくせくしている。
やたらに専門家が多い。
なにをするにもその道の先達者がいて、自分はその道の人に聞かなければなにもわからない、なにも知らないという自覚。
自分で自分の無能力を受け入れている。
自分から進んで自らの禁治産者性を宣言する。
自分からは遠いどこかかなたに本当にの真理があるという感覚。
自分から自分を疎外させていること。
どんなところにも権威はあって、僕らは進んでその権威の下に入る。そのことによってどんなに小さくて馬鹿馬鹿しくてもいいから安心感を得たいんだと思う。
経済の専門家もいるし、IT の専門家もいる。芸術の専門家もゲームの専門家もトイレ掃除の専門家もいるし、バケツの水をひっくり返すだけの専門家だっているかもしれない。
どんなところにだって専門家がいて、なんにだって権威がある。
逆に専門家だらけになってどこにも行き場がないことにもなっている。
僕らはその専門性を効率よく身につけようと思ってお金を払って学校にいく。
学校に行って教えられなければなにも知らないと自分から自覚する。
学校という機関が成立する社会の権威的構造。
学校という場はいちがいに説明できないのだけれど、いまの学校は自分から考える力をかなり奪っているように感じる。
そして生徒をへとへとに疲れさせている。
なにか創造的な仕事をしようとしたらその行為はまったく無自覚的な行為でなければならない。しかし自分ではわからないという自覚がその人を徹底的な専門性へとかりたてる。
ぼくは社会学の専門家じゃないし、社会学を勉強してきたわけでもないから間違っていたらまずいのだけれど、それでも引用させてもらえば、大沢真幸さんの「自由という牢獄」の中でウェーバーは資本主義の成立にとって宗教の要素、とくにカルヴァン派の影響に着眼していたことが述べられている。
カルヴァン派の教義は簡単に言えば、「人間の救済は全知全能の神によって徹底的に決定されている。だから人間がどう思ったりどう行動したりしても最初から決定している神の摂理に影響を及ぼすことは何にもできない」ということだ。
この教義がどうして資本主義の成立にとっての重大な要件の1つとなるのか。
ウェーバーとは違う説明になるのかもしれなけれど、僕は事実をこう解釈している。
つまり「自分の行為は最終的な神の視点から可逆的にすべて説明可能だ。だから自分の行為は神の意図によってオートマティックに操作されたものでしかない。よって私は神の意図の範囲にある限り禁欲的に貨幣をためることが自由に命令されてあるのだ」というふうに。
最終的な神の視点、つまり天井が設定されてある限りで人間の行為はその驀進的なエネルギーをある措定に向けて推進させることができる。
今の日本社会の中で措定されている「神の視点」とは何だろう?ここまで資本主義が発達するには何らかの「視点」、つまり何らかの措定がなければ不可能だったはずだ。
はっきり言ってこれは僕もわからない、というよりどうしてそんなにみんな頑張れるのか理解できない。
同調圧力だろうか、それとも社会の最底辺の数パーセントに自分が落ち込むのではないかという恐怖心がやみくもな向上心へとかりたてるのか?
今の日本社会には神が不在だ。
みな神の不在の中で不在の神に向かって、終わりのないサーキットの中を延々と走り続けている。
専門知識や社会的権威を身に着けたところで、そんなものは絶えざる相対化のなかでたちまち陳腐化される。
特権的知識への志向が普遍的凡庸さへと接続される論理的帰結。
不在の神に向かって、見えない海に向かって、ボリビアの水夫は漕ぎ出す、偶像に向かって、永遠にオルガスムスに達しない行為をしながら、快楽は永遠の苦しみに転落し、どこまでも転がり続ける、船底に転がるビー玉のように。