働くことのうしろめたさ
働くことが後ろめたい。
本当に自分は働いてしまっていいのだろうかとよく躊躇する。
自分には働く資格なんてないと思う。
別に好きなことがあるわけでもないし、その仕事に熱意をもって取り組む気もさらさらないのだから、企業にとってもこんな奴はさっさとやめてもらったほうがいいと思うだろうし、そのほうが僕自身のためにもなると自分でも思う。
会社に入って働くことでしか仕事ができないということに何とも言えない息苦しさを感じる。
会社とか役所とかNPOでもいいんだけど、そういう組織は何らかの目的を設定してその目的のためだけに人間を駆り立て、目的に合うように人間を成形し、目的に達するように合理的に設計された経路を最短で辿るよう人間に強いる。
寄り道やよそ見は許されない。
もはや偏執的に正しくあろうとし、十分すぎるほど世間的に見て”正しい”人間なのにそれでも自分の正しさを信じ切れず、飽くことのない”正しさ”を求めて止むことなく自らを疎外し続けるように人々を駆り立てる社会。
それでしか自分の存在を確認できない、自分を肯定することができなくされている。
自分の存在の肯定を求めることでますます自分から疎外されてゆく二律背反。
会社や組織に所属していることでその人はニートに比べて相対的な安定と満足と自己承認を得られるかもしれない。しかしその人は永久に”正しさ”にたどり着くことはできない、つまり永遠に疎外され続ける。
永遠の奴隷であることがすなわち他人の主人となる条件であるという論理的矛盾。
前の記事にも書いたけど(第三回 働きたくない)意識的に作業したら人間は最高のパフォーマンスを発揮することができない。
マスコミとか専門家とかが何か社会的な問題を取り上げて議論しているけど、結局その人たちもある企業なり組織なりに所属していて、その組織に所属している範囲内で妥協的に捏ね上げられた言説を発しているにすぎない。また、その組織に入るために彼らはライバルを蹴散らしてきたという動かしがたい事実がある。
自らの社会的存立条件が彼らの発言を限定づけているのにあたかも彼らの言説が無色透明で万人に当てはまるかのように機能させている。
彼らの存在の与件が彼らの発言を方向づけているのにあたかも彼らが自分の意志で自由に発言しているかのように演じている。
彼らの社会改革的な提言が社会改革的提言をするという職業目的からうまれた提言であるという欺瞞。
働くとはどこかに所属することだろうか。発言するにはどこかに所属していなければならないのか。
知性とは存在だと思う。今現在の存在が、存在と現実との落差が、知性をかたちづくる。
どこかに所属してしまったら、それで安心してしまって何も考えなくなってしまうのではないか。どこかに所属しているという安心感、目的が与えられているという充足感が思考を限界づけ、考えることを不可能にするのではないか。
たぶんもし僕が会社にはいって30年もたってしまえば、会社で働くのが当たり前だと思うようになるだろうし、今現在の僕のような若者を見つけたら説教臭くふらふらしてないで働けと言うだろう。
それはある意味仕方がない。
彼(未来の僕)の存在している条件が働いて組織につくすことを当たり前にしてしまっているからだ。
結局人間は彼が属している枠組の中でしか考えられないのだと思う。
跳ぶ前に見ろということわざがある。
大江健三郎の小説にそれをもじった見る前に跳べという作品がある。
見田宗介はまなざしの地獄という論考のなかで考察対象である殺人者の青年Nの状況を評して常に跳ぶことを強いられてある存在だといい、見る前に跳べなどという言葉は跳ぶ前に見ることができるもののいいぐさでしかない、と言っている。
実際僕らは常に跳ぶ事を強いられているんじゃないか?
跳ぶ前に見る事なんて不可能なんじゃないか?
僕らの存在の在り方がつねにすでに僕らの存在を規定している。
僕らの存在の在り方が僕らの意識につねにすでに先だっている。
僕はまだいろいろ感じていたいし、まだ生きていたい。
もう死んだように何も感じず、ただ慣習に従って亡霊のように感情を失なって生きていたくはない。
働くことには後ろめたさを感じる。
それは働くことによってたった一度きりの人生に対する疑問とか意味とか、そういう本当に僕らにとって大事な問題を忘却して、目の前のすでに答えの与えられている作業に自分を逃避させることで安心と満足を作り出してしまうからだと思う。
だから本当に与えられている問題に真摯に答えようと思ったら、苦しくて終わりが見えないけれどそれだけ僕らの存在の不思議が解明されるような道を選ばなければならない。
本当に創造的な仕事は無意識的にしかできないと前に書いた。
本当に与えられている問題にも簡単な答えなんて設定出来ない。
答えのない問いを苦しみながら解いていくしかない。
それなのにこの世界は今すぐにでも回答を出すよう僕を急かす。
そしてすでに完成されていることを前提にしている。
だから僕は何も出来ない、その資格がない。