yumekyuusaku’s diary

21歳児。無職。だるい。交差点の真ん中でとんぼ返りができたらいいなと思っている。

せめて人間らしく

今日町を歩いていたら募金箱を持ったひとに声をかけられた。

熊本地震義援金集めをしていたんだけど、僕はまるでなにも聞こえなかったかのように素通りした。

カンボジア人の青年に声をかけられたこともある。

その人は手帳を持っていて、それには寄付した人の名前とともにカンボジアの子供たちの写真が貼りつけてあった。

カンボジアの恵まれない子供たちのために寄付してほしい、ということだった。

僕はその時、今は持ち合わせがない、またあとで払うとかいってごまかした。

本当はお金あったんだけど。

自分でもサイアクなヤツだと思う。

 

 

僕はよくマックに行って一杯100円のコーヒーを頼んで長居をするんだけどそのことがうしろめたい。

マックの従業員とかは低賃金で長時間働かされているのに100円ぐらいの料金しか払わない僕みたいな客にも過剰なサービスをしてくるからだ。

それはわざわざ作り笑いをしたり、必要以上に気を遣ったり、すれ違うときに「失礼します」とか言ったりすることだったりするんだけど。

べつに迷惑なんてかかってないし、謝る必要なんてないし、そこまで客につくす必要なんてない。

むしろもっといいかげんなほうが安心する。

もちろん人間同士気づかいは大事だと思う。

でも客と従業員との関係にはいることでしか人間同士のつながりを感じられないということに何ともいえない息苦しさを感じる。

実際、従業員の人も働いている間だけそのように振る舞うのであって、道で僕と出合っても気にもとめないだろう。

道を歩いていてよく思うのは、みんなお互いに無関心だということだ。

みなお互いに忙しそうにせかせかと動きまわり、お互いにいかに相手に対して気がなく無関心であるかを見せつけ合う。

そのくせ客と従業員の関係にはいると魔法にかかったように人間的な関係性を演じはじめる。

お金を払ってやっているから、客だから自分はサービスを受けて当然なんだと思っている人は、逆に自分が奴隷の立場に立たされることを想像したほうがいいと思う。

人間の関係が金銭的な理由で決まるとき、なにか決定的に大事なものが失われてしまうと感じる。

 

もっといいサービスを受けようと思って、もっといい生活をしようと思って、僕らはお金を払う。

それで僕らは幸福になった気になる。

僕らは既製品の幸福を所有することで幸福であることを確認する。

自分はこれだけ幸福である徴を持っている、だから自分は幸福なんだ、と。

高級車を所有したり、大きなテレビを持っていたり、ディズニーランドにいったり。エステしたり。

でもその幸福はつくられた幸福だ。

実際には幸福であることを信じこまされている。

幸福であることを強制されている。

これこれのものを所有している。だからお前は幸福であらねばならないんだ、幸福でないのは間違いなんだ、と。

 

自分の最も内面的な感情までもが強制されたものでしかない事実。

自分の主人が自分ではなかったという裏切り。

 

いまこうしているうちにも世界のどこかで恵まれない子供が餓死しているかもしれない。ハンバーガー1つぶんのお金で10人の小さい命が救えるかもしれない。

 

生きている実感。

希薄な存在