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yumekyuusaku’s diary

21歳児。無職。だるい。交差点の真ん中でとんぼ返りができたらいいなと思っている。

ニート 歴史革命テーゼⅠ

僕は書くことが苦手だ。

何か意識を集中してものを書こうとするとすぐに挫折してしまう。

だから僕はものを書くときはなるべく頭を空っぽにしてなりゆきまかせで書くようにしている。

ものを書くということは頭の中の考えを紙(または液晶ディスプレイ)に書き写すことだから、空っぽの頭から何か考えが出てくるなんて矛盾しているかもしれない。

でも頭の中の考えをそのまま書き写そうとするとすぐに行き詰ってしまう。

僕が考えていることとはどこか違うような、まるで嘘を書いているような感覚におそわれる。

たまにむちゃくちゃに、読まれることなんて意識しないで書きなぐった文章のほうが物事の核心をついているような時もある。

頭の中を空っぽにして成り行き任せで書くなんて責任放棄だといわれるかもしれない。

でも僕が書き写そうとしている考えなんて自分一人で考え付いたことではなくて他人の言葉だったり、まわりの環境だったりが影響してつくりあげられたものであって自分一人の専売特許ではないし、そもそもものを書くという行為自体まわりからの影響に触発されて周りの人に考えを伝えることであって、世界という大きな運動のなかのひとつの流れみたいなものといえるかもしれない。

そう考えると僕の考えや僕の意識を意識していることなんて虚妄だし、それを全部意識したまま書き写すこと自体、僕の意識を超え出てしまっているから、いざ書こうとするとフリーズしてしまう。

書くという行為自体、僕の意識から超え出てしまっている。

その文章を書いている筆者自身でさえ自分が何を書いているのかを理解できない。

書かれた言葉は書かれた時点でその筆者自身の手から離れていく。

筆者自身の手で書かれながら筆者は自分の言葉の意味を把握しきれない。

自分の手で書かれながら自分の意図の外にある言葉。

自分が考えなかったことを自分が話してしまっているという行為の不可思議。

つねに僕の意識は僕の意識の範囲外であると思う。

だから僕らはみんな霊媒みたいなものだと思っている。

みんな自分の言葉で話している。でもその言葉は自分の意識を超えたところからやってきている。みんな自分の意志で話していると思い込んでいるけれど、実際はどこか意識を超えたところから話されているのだ。

 

書かれた言葉は書いた筆者自身でさえ何が書かれたのか把握しきれない。

だからその言葉を読む読者は筆者の意図を正確に読み取ることなどできない。

筆者自身の意図が不在なのだから読者自身で筆者の意図を想像するしかない。

読むという行為はどこにもない言葉の意図を想像することだと思う。

文章というものは意図が不在だから意味が欠けているから、意味を想像したり解釈したりできるのだと思う。

すべてがかっちり決まってしまっている文章などありえないし、そんな文章はどんな意味もどんな解釈も許さないだろうとおもう。

つねに不在の何者かに席をとってあること、そのことによって文章は意味を生産してゆくことができる。

意味が不在だということ、そのことが書かれたものの意味を可能にする。

生産的な文章とは意味が不在であることによって、つねに読者に意味が開かれているものだ。