ニート 歴史革命テーゼⅡ

前に書いたことだけど、ヴェーバーは資本主義の存立にとって宗教、特にカルヴァン派の影響を重視していた。

カルヴァン派の教義とは自分たちの運命は神によってすでに決定されている。だから自分のなす事は全て神によって自動的に操作されたものでしかない。よって神の意図の下にあるかぎり自分達は自由に貨幣を蓄積すること自体、自動的に操縦されてあるのだ。ということだ。

資本主義には欺瞞があると思う。つまり自分達は自由に資本を追求しているのだという意識である。

本当は終わりなく資本を追求することを命令されているのではないだろうか。自由に貨幣を蓄積すること自体命令されているのではないだろうか。

つまり人間は神という終局的な天井が設定されている限りで自由に振る舞うことができるのではないだろうか。

自由であるということは自由であるように演じることではないだろうか。

終局的な神の視点からみて人間の意識は合理的に説明可能になる。

人間の自分の考えは自分で決定しているという意識は神が存在して、つまり最終的な目的があることで維持できているにすぎない。

人間の中心は人間自身ではなかった。

資本主義の下での自由、それは自由であることを強制されていることでの自由である。

実際には僕らは自由に選択しているように演じることを強制されている。

本当の僕らの意思は不在なのにあたかも自分から欲求されたかのように演じている。そしてそれが自分から欲求されたことだと自分でも信じこんでいる。

神という終局点が存在することで人間の意識は保たれることができる。

もし神が存在しないならば人間は意味を生産してゆくことができない。

つまり生存不可能だ。

神というのは虚焦点だと思う。

存在していないことが存在条件であるような存在。

人間はつねに意味が不在だから意味を求めて活動することができる。

絶対に言い当てることができないから終わりなく話し続けることができる。

パズルのピースはつねに足りない。

パズルが未完成だから、パズルのピースがつねに1つ足りないから、僕らはその最後のパズルのピースを探し求めて、意味を生産してゆくことができる。生きてゆくことができる。

未完成であることがつねに完成を求めて刷新してゆくことを可能にする。

だから僕らの世界はすでに完成体である運動体であると言えるかもしれない。すでに決定されてある限りで運動してゆくことができるという意味で。