ニート 歴史革命テーゼⅣ

つまり現代社会は自由である、だからどんな行為も不可能である。

自由は自由であるように演じなければならない。どんな純粋な行為も不可能である。なぜなら不在が存在しないから。不在を埋め合わせるように自らが不在をつくりださなければならないから。不在の不在のうえで自らの自由を不自由にダンスしなければならない。自由であることが強制されている。それも自由な監視つきで。自由が人質にとられている。自由でないと処刑するぞ、ここまで取りに来い、と脅されながら。僕らはびくびくしながらその自由をありがたく受け取りに行く。自由はありがたい、とうつむいて呟きながら。自由な意思でそれを受け取りに行く。自発的に動かされながら。自発的に処刑台にのぼってゆく。そんな人間が歴史上存在しただろうか⁉!

現代ではどんな純粋な行為も不可能だ。ではどうすればいい?僕らは神がいないと自分では信じている。だから神が存在してしまっている。神の代役を引き受けることで神を絶対の高みに引き上げてしまっている。神の高みから見下ろした視点で物事を把握している。僕らは神の視点から自由な意識を享受している。神の存在が僕らの意識の存立を可能にする。

だったら神を呼び戻してやればいい。神の存在を、そのあられもなく破廉恥なありのままのすがたを、公衆の面前にさらしてやればいい。そもそも言い当てることのできない不在を言い当てるように強制されているからどんな行為も不可能になるのだ。不在でなければならないところを自らの存在で埋め合わせようとするところに矛盾があるのだ。つねに目的の王座は空位でなければならない。それだから人間は不在の目的を探し求めて生きてゆくことができる。現代社会の不可能、それは不在であるはずの目的を自らつくりだし、それに向けて自ら自己運動しなければならないことである。それは神がはるかかなたにまで遠退いて消失してしまうことによって可能になる。だから神は消えていると同時に現れている。自らが目的の奴隷となるためには自らが目的をつくりだす神とならなければならないのだから。ここにきて人間は神を追放しながら神に執着しているのだ。自らが生きてゆくために、自らが目的を求めて進んで行くことができるように、追放したはずの神に恋い焦がれているのだ。だから現代社会では純粋な行為は果てしなく困難だ。なぜならそれを求めての行為であるはずの不在が言い当てられてしまっているから。それは不在をつくりだした自らに目的が回帰してしまうことだ。目的は永久の彼方から照らしだす言及不可能な何者かでなければならない。その目的が自己回帰してしまっていることはどんな行為も偽りになることを意味する。なぜなら言及不可能なはずの目的を言及しているから。不在が存在に反転しているから。

現代社会では神がいないと信じている。だから神が存在している。ならば反転させて神を現せたらどうか。神を永遠の相において崇めたてるのではなく、神をありのままのすがたで神秘の雲の中から引きずり出すのだ。神の本来のすがた、つまり不条理、偶然、無意味、説明不能をありのままのすがたで突きつけるのだ。現代社会では全てが説明され過ぎている。だから自らが神であると同時に神を探し求めなくてはならなくするのだ。逆にどんな説明も受け付けないまったくの無意味な不条理を突き付けたらどうだろうか。意味に回収できない、サーキットに組み込めない過剰を現代社会の神である人間に突き付けるのだ。現代社会は全てが正確に言い当てられ過ぎている。正確に言い当てなければならなくなっている。だからどんな行為も偽りになるのだ。言い当てることが不可能な何者かを逆に突きつけてやる。そうすることでしか本当に自由な行為、本当に純粋な行為は取り戻せない。

革命を起こそう。資本主義はもはやその存在根拠を失っている。資本主義はその存在のエートスである不在の何者かをすでに食いつくしてしまった。現代の資本主義は目的もなくただ自己運動をしているだけである。王サマは裸だ。

本当の自由を取り戻すには革命しかない。革命を起こすためにはもう一度失われた神を連れ戻す、つまり現代社会に説明不可能な空隙を穿つのだ。ワケガワカラナイものをもっと増やしてやろう。もっと人達を混乱させてやろう。秩序のかわりに無秩序を増やそう。決して資本主義に取り込まれることのない無意味を突きつけよう。気をつけてほしいのは、資本主義はどんな無秩序や無意味も意味にかえてその自己運動に取り込んでしまうということだ。だからその無秩序や無意味は根本的に言及不能な不在でなければならない。それは意味が存在だ。不在を言い当てることはできない。それは根本的な暴力だ。どんな意味もゆるさないから。