ニートと夢について

最近雨が降り続いていたせいか、ずっとぼーっとしていた。何もせずぼーっとしていると、脳が溶けていくような感じがしてくる。一日中寝ているとたまに夢か現実かわからなくなる。夢をみながら現実のなかにいるような感じがする。

現実は夢なのかもしれない、そう思うこともある。本当は夢の中の出来事のほうが現実よりも本当のことを語っているのではないか、そう思うことがよくある。

僕は乱視だ。なにか一点をずっと見続けると輪郭がぼんやりしてきて対象を捉えられなくなる。意識を集中して見つめれば見つめるほど、見つめられるものはぼんやりしてきて、意識から逃れていってしまう。

起きている時、夢から覚めている時、僕らは意識を保ってはっきりと思考していると思っている。でも実際は起きている時のほうが催眠状態なのかもしれない。

昔の人は霊媒を用いて占いをした。例えばよく眠りにおちやすい子供を用いて神の声を代弁させた。よく眠りにおちやすいということはそれだけトランスの状態になりやすいということ、つまりそれだけ神が乗り移りやすい性質であることを意味した。

眠りにおちやすいこが、それだけ神に近づくことのできる条件だった。つまりぼーっとしやすいことがそれだけ真理に近づける条件だった。

今の社会では意識して考えれば考えるほど、それに見合う報酬が得られると考えられている。夢から覚めた意識が活動すればするほどそれだけ現実に対して働きかけられる。つまりそれだけ自分の意識が現実的で確かな存在である(現実的で確かである分だけ真理に近いことの証拠である)、と考えられている。

人間は意識して考えることで真理に到達しようとしてきた。考えて考え尽くすことで最後の一片まで真理を知り尽くすことを志してきた。

だけど真理を求めて考えること自体、最後に完全な真理があることを無条件に前提している。つまり真理を求めて考えること自体、一つの夢なんじゃないだろうか。そんな疑いがある。

真理を意識して考えることが真理にたどり着く条件でないとしたら、どうだろう。僕らはどんなことを知ることができるのだろうか。

「現実は夢。夜の夢こそ現実。」と言ったのは江戸川乱歩だったか。僕らはまったく意識しない限りで本当のことを知ることができるのではないだろうか。

人間は眠りにおちている時に覚醒している、夢の中にある時にまさに<現実>を見ている。

現実をつねに捕らえ損なうことによって、僕らは<現実>をみることができるのではないだろうか。現実がまさに現実として現前しない限りにおいて<現実>をみることができるのではないだろうか。

意識してみればみるほど、ものの輪郭はぼんやりとして捕らえられなくなる、と言った。逆説的だけれど、意識せずにものの輪郭を捕らえ損なうことがものをみることのできる条件なのかもしれない。

意識してみることはやはり歴史の目的に内属してしまう。眠りながらみることでしか歴史を突き抜けてみることはできない。

目覚めてはっきり思考している(と思っている)ときは、本当はまどろんでいるのだ。現実という殻を突き破って本当のかたちをとらえるためには、眠っていなければならない。なぜなら人間は夢を見ているまさにその時こそ覚醒しているのだから。