ニートとプロレタリア

町を歩いていると働いている人によく出会う。働いている人に出会うと僕は決まりが悪くなる。だからなんとなく外に出るのに気が引けてくる。

たまに忙しくもないのにせかせかしてみたり、活動的で意欲的な人間であるように見せるために嘘をついたりする。そのたびに自分が嫌になる。

でも嘘をつかないわけにはいかない。そうしないとこの社会では生きていけないから。

自分でも嘘を信じ込まないといけない。嘘は内面化されて嘘が嘘であると認識できなくなる。そこまで嘘は完成化される。

僕は自分を売り込むために、高く評価されるために、自分をインテグレートしてきた。昨日の自分よりも今日の自分を、今日の自分よりも明日の自分を、進化させるために自分の経験を積み重ねてきた。そうすることで賢くなると思っていた。

でも僕より前にそこを通過していった人はいくらでもいる。結局自分をよく見せようと思っても、誰かの二番手でしかない。だから僕は何もかも捨て去ってしまおうと思った。プライドとか地位とか捨て去って、社会の底辺で完全にフリーになろうと思った。

でも完全にフリーになることなんてできない。どんな所にいても、どんなことをしていてもインテグレートの呪縛からは逃れられない。

インテグレートするしかないとしたら、結局誰かの二番手に留まるしかないのだ。それだったら何もする意味がない。だから何もすることができない。

情報が多いことは本当にいいことなのだろうか。僕らは賢くなろうとして情報や知識をため込むけれど、そのぶん本当に賢くなっているのだろうか。

知識を得るためにお金を払ってスクールに通う。より多くのことを知っているために本や雑誌から知識を借りてくる。でもお金やものを所有したところで別にそれだけ賢くなるわけではない。知識を所有していることは知性があることとイコールではない。

ものごとの本質を理解するためには、何も所有していてはいけないのだ。つねにゼロから考えていかなければ本当の理解にはたどり着けない。僕はそう思う。

だから知識を求めるために知識をため込んだり、自分を持ち上げるために経験・知識を積み重ねていってはいけない。それは偶像崇拝だ。

プロレタリアートとは労働者のことだ。だからニートとは違う。ちゃんと働いて自分ののりくちを稼いでいるし、自立している。それに相応の社会的地位もある。と思う。しかしプロレタリアートの本来の意味とは、自分の肉体以外に売り出す商品を持っていないということ、つまり自分の肉体以外に何も持っていないということである。

何も持っていないということ。それがプロレタリアの本来の条件だった。だから僕はニートとプロレタリアは案外近いところにいるのではないかと思う。何も持っておらずどこからも疎外されているということ。それはニートとプロレタリアの本質を規定している与件である。

知識を求めるために知識を蓄積することは、それ自体が偶像崇拝につながるという逆説を含んでいた。だから本当にものごとを理解するためには、何も持っていないということ、何も知らないということでなければならない。だからぼくはニートとプロレタリアは(わずかながらでも)希望を託せる主体であると思っている。