感情的な無感動

最近悲観的に現状を批判するよりも、オプティミスティックに考えるほうが得なんじゃないかと思うようになった。それはシニカルに現状を肯定する訳ではなくて。

悲観的に考えようと楽観的に考えようと、現状は変わらない。だったら別に悲観的に考えて自分を追い詰める必要はない。追い詰めようと追い詰めなかろうと外からの評価は一ミリだって変わらない。

今日電車に乗っていてふと気がついた。みんな普段はせかせかと忙しそうに動きまわっているのに、電車に乗っている時は落ち着いているように見えた。彼らが落ち着いているまさにその時、電車は高速で運動している。高速で運動していながら彼らは安心している。そして電車が運動を停止した時、思い出したように降車して、またせかせかと動きまわりはじめる。

何処かに向かって運動している。その限りで安定することができる。安定するためにはつねに運動していないとだめなのだ。

オプティミスティックに現状を追認することは白痴化することと同じだ。

現代では抒情詩しかあり得ない。だからヒステリックに現状を批判してもヒステリーで返されるだけだ。

現代では感情が死んで無機質な理性が生き残ったのか。現状は正反対である。現代では感情しかない。機械的で冷酷な近代的理性が人間を操作して彼らを有機的なつながりから疎外する代わりに、見せかけの感情が彼らを自ら労働に縛りつけるようにさせる。

彼らは自分は充分人間的だと思っている。その限りで彼らは非人間的である。

自分が非人間的であると自覚している人間は、自分の感情は操作の対象でしかないと理解している。しかし自分が人間的だと思っている人間は、自分の倫理観や道徳観を自明の真理であると思い込んでいる。

現代の資本主義は無機質な商品交換によって成立しているのではなくて、人間的な奴隷制度によって成立している。それは自分たちの感情までも商品交換の対象にする意図なのだけれど。少なくも彼らは自分ではそれを意識していない。だから彼らは人間的で倫理的であるというわけだ。

人間は自分よりも一段高い所から俯瞰的に現状を認識することはできない。つねに自分の目線から現状を認識するしかない。だから決断にはつねに跳躍が伴う。

跳んでみてからでしか行動の評価はできないのだ。

ペシミスティクに現状を批判するのもいい。ただそれは感情的に現状を肯定することと隣り合わせである。

オプティミスティックに現状を批判するとは、自分がつねに誤っていると自覚しながら批判することである。自分の存在も、高い所からエピステーメーを突きつけるのではなくて、つねに誤りうる存在として笑い飛ばす。

気をつけなければならないのは、批判的オプティミズムはシニカルに現状を肯定することと同義ではない、ということである。