yumekyuusaku’s diary

21歳児。無職。だるい。交差点の真ん中でとんぼ返りができたらいいなと思っている。

働きたくない

 ボリビアには海軍があると聞いたことがある。

ところでボリビアには海がない。

その昔ボリビアは太平洋の海岸線にまで国境がせりだしていたそうで、いつの日か海を取り戻した日に備えて日々海軍は訓練を積んでいるそうだ。

なんという苦しみだろう。

ボリビアの若い海兵隊員はいつ本当に役に立つかも分からないような実戦訓練を繰り返して日々不毛な儀式を演じ続けていることになる。

なんという疲労だろう。

無意味とわかりながらも延々と不毛な作業をあたかもとても意味のあることのように自分に信じこませ、無理にでも演じ続けなければならない桎梏

それが彼らの存在条件だから。

存在の無意味が存在であるような存在。 

 

Phaさんが言っていたことだけど、フローという概念があって、かなりいいかげんに説明すると、人間はそのいましている当の行為を意識していないときに最高のパフォーマンスを発揮するらしい。(「ニートの歩き方」p141~p148、技術評論社、2012、pha)

つまり意識的になにかを成そうとしたその時点で本当に創造的な仕事は不可能になっているということだ。

 

なにかするにも理由がないとなにもできない世の中になってきている気がする。 

なにもかも理由に回収されてしまっているといえるかもしれない。

みんな最終的な目的に向かって最短距離を無駄なく間違いなく突き進もうとあくせくしている。

 

やたらに専門家が多い。

なにをするにもその道の先達者がいて、自分はその道の人に聞かなければなにもわからない、なにも知らないという自覚。

自分で自分の無能力を受け入れている。

自分から進んで自らの禁治産者性を宣言する。

自分からは遠いどこかかなたに本当にの真理があるという感覚。 

自分から自分を疎外させていること。

どんなところにも権威はあって、僕らは進んでその権威の下に入る。そのことによってどんなに小さくて馬鹿馬鹿しくてもいいから安心感を得たいんだと思う。

経済の専門家もいるし、IT の専門家もいる。芸術の専門家もゲームの専門家もトイレ掃除の専門家もいるし、バケツの水をひっくり返すだけの専門家だっているかもしれない。

どんなところにだって専門家がいて、なんにだって権威がある。

逆に専門家だらけになってどこにも行き場がないことにもなっている。

僕らはその専門性を効率よく身につけようと思ってお金を払って学校にいく。

学校に行って教えられなければなにも知らないと自分から自覚する。

学校という機関が成立する社会の権威的構造。

学校という場はいちがいに説明できないのだけれど、いまの学校は自分から考える力をかなり奪っているように感じる。 

そして生徒をへとへとに疲れさせている。

 

なにか創造的な仕事をしようとしたらその行為はまったく無自覚的な行為でなければならない。しかし自分ではわからないという自覚がその人を徹底的な専門性へとかりたてる。

 

ぼくは社会学の専門家じゃないし、社会学を勉強してきたわけでもないから間違っていたらまずいのだけれど、それでも引用させてもらえば、大沢真幸さんの「自由という牢獄」の中でウェーバーは資本主義の成立にとって宗教の要素、とくにカルヴァン派の影響に着眼していたことが述べられている。

カルヴァン派の教義は簡単に言えば、「人間の救済は全知全能の神によって徹底的に決定されている。だから人間がどう思ったりどう行動したりしても最初から決定している神の摂理に影響を及ぼすことは何にもできない」ということだ。

 この教義がどうして資本主義の成立にとっての重大な要件の1つとなるのか。

ウェーバーとは違う説明になるのかもしれなけれど、僕は事実をこう解釈している。

つまり「自分の行為は最終的な神の視点から可逆的にすべて説明可能だ。だから自分の行為は神の意図によってオートマティックに操作されたものでしかない。よって私は神の意図の範囲にある限り禁欲的に貨幣をためることが自由に命令されてあるのだ」というふうに。

最終的な神の視点、つまり天井が設定されてある限りで人間の行為はその驀進的なエネルギーをある措定に向けて推進させることができる。

 

今の日本社会の中で措定されている「神の視点」とは何だろう?ここまで資本主義が発達するには何らかの「視点」、つまり何らかの措定がなければ不可能だったはずだ。

はっきり言ってこれは僕もわからない、というよりどうしてそんなにみんな頑張れるのか理解できない。

同調圧力だろうか、それとも社会の最底辺の数パーセントに自分が落ち込むのではないかという恐怖心がやみくもな向上心へとかりたてるのか?

 

今の日本社会には神が不在だ。

みな神の不在の中で不在の神に向かって、終わりのないサーキットの中を延々と走り続けている。

専門知識や社会的権威を身に着けたところで、そんなものは絶えざる相対化のなかでたちまち陳腐化される。

特権的知識への志向が普遍的凡庸さへと接続される論理的帰結。

 

不在の神に向かって、見えない海に向かって、ボリビアの水夫は漕ぎ出す、偶像に向かって、永遠にオルガスムスに達しない行為をしながら、快楽は永遠の苦しみに転落し、どこまでも転がり続ける、船底に転がるビー玉のように。