ものが挟まったような

現実との間にものが挟まった感覚。言葉とはどこでもないところから突然降りてきて、私をとらえるのだろう。現実との間に薄い皮膜一枚を隔てた感覚。言葉がなくても身体は現実にある。身体的な物質性は私の存在を確からしく思わせるが、言葉によって分節化される精神は、自明とされる存在とは別のものだ。言葉によって、私の内界と外界は分離され、裁断される。そして、私のこちら側に精神は生まれ、向こう側に世界は立ち現れる。言葉は、そのままでは自然に、無反省に溶け合っていた世界との関係を、半ば暴力的に、無慈悲に切断し、新たに作り変える。

だから、言葉は傷つけ、残酷なものであるが、言葉によってしか、分節され、反省された形で世界を新たに作り出すことはできない。そのままではうつろな存在にすぎなかった精神が、新たな光を得ることで、新たな運動を得、現実に向かって新たな関係を切り結んでいけるようになる。言葉がなければ、世界のこちら側で暗いままに、心は閉じたままだろう。

思考し、感情の働きを認識し、自己を有するには言葉がなければならない。しかし、思考し、自己を有するから言葉が出るのではない。言葉のほうがまずやってきて、人をとらえ、人の内面をつくる。人の精神や思考、感情が先にあるのではなく、言葉のほうがやってくることで、それらのものに名前を与え、分節し、理解し、解釈できるものとする。言葉とは、意識のこちら側にあるものでなく、どこでもないところから、突然人をとらえ、人を動かし、現実を照らすものなのだろう。