祖母の死

なにも成長しないまま月日だけが過ぎ去った感覚がある。上京してから約7年間、何かを為そうとしながら、何も成し遂げられず、ただいたずらに世間の波にのまれていたにすぎない。3年間努めた会社を辞めて、ここ1年は契約社員として、ただ数値を打ち込むだけの作業をしながら、無為に時間を消費している。

これからどうするのか、将来はどうなるのか、考えても絶望するしかないので、何も考えないまま、耳と目を覆い、その日その日がやってきては過ぎていくのを、じっと耐えている。いつまでもこんな生活が続くはずはないとは分かっている。しかし、偽ることのできない現実が到来した時、現実を受け入れる用意は、はたしてできているのだろうか。

中年になり、まともな職にも就かず、何の技術もなく、対人関係に極度の障害を持つ、自意識ばかり高い、吃音症の人間など、どんな人間だって、軽蔑し、憎悪し、関わり合いになどなりたくはないだろう。そんな人間にはなりたくないし、きっとならないだろうと、学生の頃は信じていた。

しかし、月日が経ち、社会にもまれ、何もできないまま、時間だけが経過していくにつれ、自分がどうしようもなく、救いがたい存在になっていることに気づかされる。目的もないまま、その日その日を何の発展もなく、ただ繰り返している。若い時に抱いていた期待や希望も、いまでは思い出すこともできなくなり、どうしたらこの小さな生活を保っていられるかに日々をあくせくしている。

そうしないと気が気じゃないのだ。自分が醜く、ちっぽけな存在でしかないことが明らかにされてしまうことが。だから自分はまだ望みがあると、まだやり直せると、そう信じて、先の見えない生活を空虚な希望で満たして生き続けている。

 

先日、祖母が亡くなった。上京してからはほとんど実家とは関係を持たなくなっていたのだけれど、祖母が亡くなった当日の朝、携帯のメッセージアプリに、今日未明に祖母が亡くなったこと、明日葬儀を執り行うことの通知が兄から届いていた。

祖母との思い出は幼少の頃に遡る。父の実家は長野の山奥にあったので、お盆の時期はよく泊りがけで祖母のもとを訪れた。私の記憶している祖母の印象は、ものやわらかで優しく、控えめといっていいほど謙虚であり、私たち家族4人で訪れた際も、幼い兄と私をうるさがりもせず、心から歓迎しているように見えた。

私は祖母の家、父の故郷の村に行くのが好きだった。都会で育った私にとって、田舎の生活や自然に囲まれた環境は物珍しくもあり、うらやましくもあった。

祖父は私の生まれる前に亡くなり、祖母と同居していた叔父も、私が中学の頃に亡くなった。叔父が亡くなってからは、祖母はしばらく1人で生活していたが、私が高校の時、体調が急変し、入院することとなった。近所の人が、たまたま祖母のところに立ち寄ったところ、祖母の様子のおかしいことを発見した。

連絡を受けた父は、祖母を車に乗せ、2時間ほどかけて自宅にほど近い大学病院まで運んだ。祖母はそこにそのまま入院することになった。

幸い祖母の病は命に至るものではなく、術後普通に生活できるようになったけれど、山奥に祖母1人で生活させることは、これ以上はできないだろうということになり、私たち家族のもとで生活を共にするようになった。

祖母の認知症は以前から、その面影はあったが、叔父が亡くなり1人になってからは、症状がさらにひどくなった。私たちの家で生活するようになってからも、今どこにいるのかわかっていないようで、どんなに言い聞かせても、田舎の自分の家にいるのだと思い込んでいた。私を親戚の誰それだのと勘違いしていた。1人では入浴、排せつなどがうまくできなくなっていた。私は祖母のにおいに堪りかね、無理やり風呂に入れさせようと思ったこともあったが、思い直してやめた。祖母は家族の中で打ち解けず、私たちも祖母に対しどこか他人行儀になり、厄介者扱いするようになった。

母は祖母を施設に入れるよう父に懇願した。私も、それが祖母と父に対して非情な選択であると理解もせずに、母の意見に同調した。受験を控えた兄も同じであったように思う。3人の意見に押される形で、不本意ながらも父は祖母を施設に入所させた。

それからは、祖母に対しては断片的な記憶しかない。大学に入り、1人暮らしをするようになってからは、実家に帰ることもほとんどなくなった。ごくたまに帰省し、施設に祖母を面会に訪れると、学校の教室を思わせる無機質な部屋の中に、他の入所者に混じって、祖母の姿があった。

私が誰であるか分かるか祖母に訊ねると、祖母は鼻を鳴らし、半ば軽蔑的に、馬鹿にするなといった目つきで私を見返した。私は祖母が本心に帰っているのではないかと疑った。

 

それから家族とも不和となり、上京してからは特に帰省することもなくなった。いつも祖母の存在が頭に引っかかっていながら、とっくに祖母は死んでいるだろうと思いなして月日を過ごした。

きっと考えたくなかったのだろう、祖母がまだ生きて施設に入所していることや、まったく面会に来ない自分の不孝なこと。そして、家族の問題を思い出し、家族の問題に引き戻されることを、無意識で頑なに拒んでいたのだろう。

祖母の訃報を知らされたとき、唐突に寝耳を襲われる感覚とともに、ついにその時が来たな、心にいつも想像してきたことがついに現実になったな、という思いがぼんやり頭に浮かんだ。後ろめたい感情が、ついに弁済がされないままに、決済の日を迎えてしまった。私は何もせず、不孝なまま、それまでただ自分の問題だけにかかずり合っていた。

実家に向かう道中、車内で兄から祖母の死因を聞かされた。3カ月前から体調が悪くなって入院していたこと、ここ1カ月は特に容体が悪化し、いつ死んでもおかしくない状況であったことを、深夜の高速を走りながらただぼんやりと聞いていた。

 

祖母の葬儀はささやかなものだった。会ったこともない親戚数名、叔母と従兄、私たち家族4人。生きている頃はほとんど関心を示さなかったのに、いざ死んだとなったら、思い出したように外見だけ体面を繕って集まるんだな、といった考えが、半ば自嘲的に頭に浮かんだ。

喪主であった父は葬儀に関するあれこれを、すべて1人でしなければならなかった。私は、ぎこちなくも親戚の相手をする父を尻目に、居心地が悪かった。何年も家に帰らず、祖母のことをほったらかしにしていたのに、葬儀となったら身内らしく顔を出して、殊勝な態度をとったりすることが、自分でも場違いで、恥ずかしい思いだった。自分から家族を避けていたのに、こういう時にどういう態度をとればいいのか、全く分からなかった。忙しく立ち働く父を尻目に、私はただ棒のように立ちつくしていた。

母も兄も、祖母の死の事実の前に呆然としていた。我々はひどく機械的に葬儀に参列し、しおらしい顔をし、祖母の遺影を前にお辞儀をした。坊主が来てお経を唱え何か言って帰っていった。何の感情もわかなかった。ただ恥辱だけが心の中で疼いていた。

ごくわずかな数の親戚以外、葬儀には参列しなかった。我々は顔も知らない親せきを前に、どう扱ってよいのかも分からず、向こうも向こうで身の置き場に困った感じで、お互いにひどく不器用に葬式をしていた。親戚からはどこかつまらない、腹立たしいげな印象を受けたが、我々にはどうすることもできなかった。

何もかも、ひどく儀式的で形式的であった。そうと言わなければ、祖母の死のために葬式を行っているとは気づかないのではないかと思われた。

父とは長年反目し合い、口を利かない仲であった。祖母が亡くなってからも、どんな言葉をかけてよいか分からず、顔を合わせれば、ただ気まずそうに眼をそらすしかなかった。火葬場で祖母の骨を拾った後、葬儀場に戻るため車に乗り込むとき、父は私の名を呼び、何か言おうとした。その時、どんな言葉を言おうとしたのか、今では知る術もないのだけれど、あの時の父の悄然とした、やり場のない、気落ちした表情は、忘れることができない。私はただ自分の不甲斐なさにやるせなさを覚えるしかなかった。

 

大学を辞めてから、家族とは疎遠になっていった。上京してからも、電話にも出ず、ろくに連絡もよこさなかった。私は、意識して家族と関係を断ち、知っている人のいない環境で、新しく人生を再び始めたかった。

しかし現実を見ると、いつまでも半人前のままで、ろくな仕事に就くこともできず、相変わらず世間に対して相反した感情を抱えたまま、未熟な大人となってしまっていることに気づかされる。祖母の死が、その意識をさらに強めた。

だめになった人生を、いつもふりだしからやり直す。どうせだめになった人生なら、とことんだめにしてやろうという自傷的な願望を、私は大学を辞めた頃から人生に対して持つようになっていた。

しかし完全にだめになりきることもできず、といって積極的に社会的な関係を築いてゆくこともできず、いつしか半端な人生を送るよりほかに仕方なくなっていることに気づく。

何者にもなりきれず、人並みの人生もおくれない私に対して、家の皆はどんな感情を抱いているのだろう?反抗し、家を飛び出し、音信不通となった私に対して、どんな感情を持つだろうか?軽蔑だろうか?嫌悪だろうか?それとも嘲笑だろうか?

言い分がないわけではない。家族の抑圧から逃れるためには、家を出るしかなかった。そうしなければ、私はきっと暴力を振るうようになっていただろう。上京してからも、自分なりに苦労して生活してきた。ぼろぼろになりながらも、だめになった人生をつなぎ止め、どうにか人並みの人生を送れるように、会社に就職して努力してみた。

しかし、私の中の心が統一性を持たず混沌としているように、外界における対人関係や社会関係においても、矛盾し混乱した関係を結ばざるおえなかった。自分の行動に統一性を持たすことができず、努力しても、矛盾が亢進してきて破局を来す。その繰り返し。一つ物事が長続きせず、持続した関係性を取り持つことができない。

だから他人を傷つけ、期待を裏切り続けることで、自分を傷つけ続けるしかない。いつまでも自分に自信を持つことができないから、いつまでもスタート地点からやり直している。

こんなどうしようもない人間になってしまって、それでもまだ家族の一員であることは論理的に不可能だろう。

母は私が良い大学に入り、良い会社に入社することを望み、そうなるように私に言い聞かせて育ててきた。申し訳ないけれど、もう私は母の望みをかなえことはできない。私は母との関係では、どうしようもない程落ちこぼれた、失敗した存在なのだ。私はもう母に会いたくない。母の顔を見るだけで、自分がいかに無価値でみじめで失敗した存在であるかが意識されてしまう。

私が生きて、人生に再び意味を見出すことができるためには、家族の存在を否定しなければならない。これは論理的に避けられない。そうでないと私が無価値で間違った存在になってしまう。だから私は、家族の目の届かない離れたところで、死の通知が届くまで、1人生き続けるしかないのだろう。