現実について

現実に向かい合わなければ、人は生産的な仕事をすることはできない。しかし、現実の中身の検討が必要だ。

私が見ている現実は本当に現実なのだろうか?最近疑わしくなってきている。

現実的な行動でなければ、現実へのアプローチをするにあたって、確かな担保があるとは言えない。しかし、現実的な行動とは何を意味するだろうか?

そこが重要だ。今見ている現実が、スクリーンに映し出された現実でないと、確かな質量のある現実だと、自信を持って言えるだろうか?

私も含めて、ほとんどの人は、商業化された、広告で表現された人生の中で、その限界の内で、物事を判断し、考え、あるいは選択している。

現実の限界が、ある枠組みの中で決められ、その外側に対する想像力が奪われている。

現実的な選択という時の現実とは、だから、ある観点から現実化され、自然化された世界の見方であり、一側面から強課され、意味づけられた、世界の一断面ということだ。

この断面の周りでしか、現実的な想像力とその可能性の限界は運動しない。平板化され、平準化された現実の地平においては。

 

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人生の意味が疎外され、世界が没落するのはこの時である。

平板化した現実に引きつけられ、それに当てはめることでしか、人生を評価するすべがない。外部からの尺度で、自分のうかがい知らないところで、人生が議論され、決定付けられる。

外部化された現実は、自然化された外観を呈すが、それが内面化された意味において、生きられた実感としての重さを持つことはない。現実は、生きられる実感としての手触りを失い、仮構されたものとしてのフィクションになる。

現実をよりよく生きようとしても、だから、足がかりを失うしかない。現実に準拠し、現実の担保を取ろうとも、それは内面化された意味での根拠を持たないのだから。どんな動機付けや価値基準を与えられようとも、実感としての確からしさと、行動への確信を与えられることはない。

 

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人生を続けるとは、現実と関係を持つことだが、現実の中で投企を行う。それは仮構された現実に対してではなく、自身固有の問題領域や、生きられる限界から地続きの地平にある現実に対してである。

 

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固有のものとしての現実は、だから、反省の形式を要請する。ある行程ににおける必然としての帰結を、意味付け、内化する。反省がなければ、現実を理解することもできない。

そうでなければ、常に経過し、忘却してゆく、時の断片しか持つことができず、外部化された尺度でしか、人生の確からしさを実感できない存在になる。

必然性としての現実は、現在の内に過去、未来を収斂するが、自然化された現実は、無意識に外部化された評価尺度を強課するため、時間をとりこぼし、先へ先へと人生の意味を疎外し続ける。

選択肢としての現実は、あれもこれもと、様々な取り得る可能性の束を展開する。しかし、生きられる限界としての現実は、必然性と、根拠付けと、それでなければならなかったという、ある倫理を要請する。

自身の生に、つまり運命に忠実であれ、とそれは命じる。別の言葉で良心と呼んでもよい。

 

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そこで、私は私の人生に対して、ふと考える。恥辱に塗れた人の生であると。

現実から差し出された動かしがたい事実に対して、どんな弁明も許されない。この偽りのない、仮借ない生の照明に対して、人生が指し示すものに忠実であることができるだろうか。

 

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選択肢としての現実と生きられる現実との乖離。選択肢からは、あらゆる取りうる期待値を前提にすることができるが、取りうる可能性と行動の幅はあらかじめ決まっている。

生きられる限界としての唯一性と、取りうるあらゆる選択としての任意性の相克。必然性と偶然性。それでなければならなかったことと、それでなくともよかったこととの決着。

 

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現実との接点を持つことで、実際の行動と、それにともなう可能性、およびそれらに対処するための具体的な思考が準備される。

しかし、この選択を行うことの根拠と理由付けは、必ずしも相互に結びつくものではない。選択的な現実の取りうる値は、あらかじめ決められているため、現実的な手触りがなく、空虚で現実感がない。そこからは、何らの根拠も、真実らしさも、与えられることはない。

あらかじめ用意された現実を、本物であるかのように、自分の意志で演じることを、強制されるという点で、それは虚構であり、反現実である。

 

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一方で、生きられる現実はどうなっているだろうか?

生きられる現実は、外部の現実と結びつくことなく、なんら具体的な行動との接点を持つこともなくなり、自閉的な空間の中でしか展開しなくなる。

生きられた現実は、密室の空想の中で、自足したイマージュを作り上げ、その限りで持続するが、その究極の結末は、赤裸々で暴力的な現実の侵入に伴う、自己幻想の崩壊である。

 

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生きられた現実を救出することは可能だろうか?

常にこれはフィクションだ、まじめに取り合う必要はない、と思い定めて、選択的な現実に対処することは、意識しようがしまいが、誰もが前提にしえることである。

問題は選択的な現実に対抗する現実は何か?ということだ。

目の前の現実が現実でないとすれば、現実でないことを埋め合わせる、代わりの何かがなければならない。その何かが、目の前の現実に対して、生きられた実感としての、じゅうぶんに現実的な確からしさを与えてくれる対抗性をもって、立ち現れなければならない。

現実的な確からしさとは、単に具体化の度合いが高い、ということではなく、本来あるべきものの在り方に対して、どれだけふさわしいか、ということである。

 

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生きられる現実が、現実的な確かさを纏うことができるだろうか?

生きられる現実は、具体化される可能性の条件を失ったまま、空想化した妄想として展開する。

あるべきものとしての現実は、あり得る選択肢に基づく現実によって、枠づけ、制限され、抑圧される。

結果、それは内面化された願望としてのイメージになることで、外面化され、具体化される回路を失う。

生きられた現実は、個人にとっては避けられない必然でありながら、社会の一般的なとりうる値から見れば、具体的な可能性がなく、極めて私的な事柄に属するものとして、空想、虚構、さらには妄想の側へ押しやられる。

必然的で、避けられないものが、フィクションとなることによって、あるべきものとしての現実も、確かさを失い、どこか頼りない、疑わしいものとなる。

そして目に映る現実は、あらゆる取りうる値の可能性の束となり、それを根拠づける理由もないまま、あれもこれもと、可能なあらゆる選択肢を求め続けることを強制する。