ニートの持ち物

はじめから失うとわかっていたら、何も持とうとは思わないだろう。

何かを持とうとすることは何かに縛られることだ。いつか失うんじゃないかとずっとビクビクし続けるくらいなら、一気に全て捨ててしまった方がいい。

ギリシャ神話のシーシュポスは永遠に巨岩を山上に押し上げ続ける罰を受けた。巨岩を山上に運び終えると岩は斜面を落下し、またはじめからやり直さなければならないのだ。

現代の僕たちはこのシーシュポスに似ている。いくら積み重ねていっても終わりがなく、そのくせいつか失うんじゃないかと絶えずビクビクしている。

物質的に豊かになればなるほど、現在の快適さを失わないために資本主義体制に依存せざるおえなくなる。生活を豊かにするための技術が逆に生活を操作するようになる。

ジジェクある寓話。ポーランド人とユダヤ人が同じ列車に乗り合わせていた。ポーランド人はユダヤ人にどうしたらそんなに金を稼げるのかと聞いた。ユダヤ人は教えて欲しければ3シリング払えと言った。

ポーランド人は3シリング払った。ユダヤ人はそこでとりとめないことを話はじめ、ちょっとたったところで話しを止め、続きが聴きたければもう3シリング払うように要求した。

ポーランド人は仕方なくもう3シリング払ったが、ユダヤ人はちょっと話したところで話しを止め、また3シリングを要求して、、、

とうとうポーランド人は怒りだし、言った。「お前だって何も知っていないんじゃないか‼嘘つきめ‼」

僕たちはこのポーランド人と同じように、存在しない幻影を恰も存在しているかのように錯覚している。ユダヤ人はそもそもはじめから何も知らないのだ。ユダヤ人を金持ちにしているのはポーランド人自身、つまりポーランド人がユダヤ人に投影している想像がポーランド人自身に働きかける行動の仕方である。

王サマが王であるのは、彼が王であるからではない。臣下が彼を王と思うから王であるのだ。それを臣下は彼が王であるから我々は臣下であるのだと錯覚している。

実際には存在していないのだ。それを恰も存在しているかのように振る舞うことに虚偽意識はある。

ものを所有するということは本当は何も所有できないことの証明なのだ。ものの所有はものへの疎外、物神崇拝を生み出す。それはものの所有者であるはずがものの従属物に転落することだ。

自分は持っている、自分は裕福だという意識は、実は丸裸だと宣言しているに等しい。ものを多く所有していることの優越感は、ものへの偏執的な執着、ものへの永続的な隷属を意味している。それはつねにいつか失うんじゃないかという恐怖と隣り合わせである。それは隷属であり、崇拝である。

自分はものによって護られているという意識は、自分はものはよってしか護られていないという恐怖と隣り合わせである。鋼鉄の鎧で護られていると意識しているが、実は柔肌をさらけ出した最も傷つきやすい存在なのに。

僕たちは今の生活を失うんじゃないかとビクビクして、現状を変えられないでいる。今よりもっと悪くなるんじゃないかと脅えている。それも現在の生活がどんなものであるのか理解せずに。現在の生活がましなものであると、耐えられるものであると思えるのは、現在の物質生活レベルを失ったら絶望しかないと信じ込んでいるからだ。物質的な豊かさ以外で豊かさをはかることが不可能になっている。そもそもそれ以外の可能性が想像できないのだ。だから嫌がおうでも現体制にしがみつくことになる。それが他人を、人口の数%を、死に追いやることになっても。自分だけは護られていると思っているから。

現状を正しく理解しているなら革命しかないと思う。誰かこの体制を降りた人、こんなクソゲーやってられんと匙を投げた人、この社会ではとても生きていけないと思っている人は僕に連絡してほしい。