ニート 歴史革命テーゼⅢ

まえに資本主義の成立にとって宗教、とくにカルヴァン派の影響について話したけど、現代では神が究極まで遠退いてほとんど見えなくなっている状況だと思う。

カルヴァン派の教義のところで人間がどんなに努力して神の気にいられるように行為したところで神の意図に影響を与えることはまったく出来ないと話したと思う。つまり神の救済の対象はつねにすでに人間の意図に先だって決定されていて、人間がどう意識的に行為しようと神の意図に影響を与えることはまったくもって絶望的だということだ。

だからここでは神が人間から限りなく遠退いてしまっている。

例えば人間が善行を積んだらそれだけ天国に行ける可能性が高まるとしよう。

その場合神は人間からそれほど遠いところにある訳ではない。

なぜなら人間の意図で神の意図を操作することが不可能でなはないからだ。

神が人間の意図によって影響可能だということ、つまり神が人間の意識にはっきり現れていることで、神は人間からそれほど離れていない、つまり人間は神の一部を引き受けることができるといえる。

逆に神が人間からはるか遠くにいる場合はその分だけ神は絶対的である。

神のすがたが人間の意識にはっきり現れない、人間のどんな意図も神の意識に影響を及ぼすことができない、ということは神がそれだけ絶対的である、つまり神が人間から絶対の高みにいるということである。

神が絶対的であればあるほど人間から遠ざかってしまうということ、つまり人間の意識から離れていってしまうということ。

ここでこの神と人間の関係の相反は極大化する。

つまり神が絶対的であればあるほど神が遠ざかってしまうということ、神を崇めれば崇めるほど神は人間の意識にのぼることが不可能になってしまうということ、このことによって神はその究極において人間の意識からほぼ消失する点まで退行する。そしてこの点(vanishing point)において神は限りなく完成体になる。

(神が完成してしまうことは許されな。なぜなら神は未完成であることで存在することができるからである。神とは不在のことである。つねに存在していないことが神の存在条件である。つねに意味が不在だから人間はその意味を求めて生存してゆくことができる。もし意味が完全に与えられてしまったら、人間は意味を求めて生存してゆくことができない。つまり神の完成が人間の存在の不可能性を言い当てる。)

神の限りない消失が神の究極のすがただとすると、神は存在しないという意識が逆に神の存在を証拠だてる。

神の限りない不在が神の限りなく確かな存在証明になる。

つまり神は存在していないという否定の身振りが神の存在を言い当てている。

現代社会はこの神の存在が究極まで退いてしまった世界だと思う。

神は存在しない。だから僕らは自由だ。自分の考えも自分の意識もこの史上最大の存在である自分の管理下にある。しかしその意識は神が存在していることで吊り上げられたものだ。神が絶対的な高みに遠ざかっているから人間は自分が自由の下にあると意識できる。史上最大であることがすなわち史上最小となる。

だから現代社会では人びとは全てを正確に言い当てようとする。

神が究極的に遠ざかってしまったから自分達は神の代役を努めなくてはならない。つまり自由な意識を持った存在として僕らは神の意図を最大限で再現しなければならない。だから僕らは神から限りなく遠ざかっている限りにおいて神の影響から逃れることができない。

僕らがどう行動しようとそれは終局的な目的、神の視点から構築された結果の再演でしかない。

神はいないから僕らが神のかわりを演じよう。この時僕らは神の存在を言い当ててしまっている。

神の意図は絶対的に知ることはできない。このことが神の存在を可能にした。神の意図など理解できないから、神の存在が絶対の高みあるから、人間は神の存在を確かに感じ、神の意図を近づけないものとして想像することはできた。

ところが神が消失した時点で言い当てることができないために語ることが可能だったその不在が、今度は逆に存在してしまっている。つまり神に限りなく近くなった人間が神である限り、神の存在が不在であってはならない、神の存在が説明不可能な何者かではあってはならない。

神は全知全能だ。だから説明不可能ではあってはならない。神の存在は不在を根拠にしているから神の存在を証明することは不在を証明することになり矛盾する。言い当てることができないものをまさに正確に言い当てようとする、そのことが語ることを困難にしている。全て完全に正しく行動しようとすることが行動を困難にする。全てを完全に説明しつくそうとすることが説明を困難にする。

民主主義や資本主義は消失してしまった不在の神の代わりに自らが神の代役をつとめようとする繰り返しだ。

民主主義や資本主義の困難は本来言い当てることのできない自らの存在を言い当てなければならないことの不可能性にある。

民主主義では多数決で最も合理的な結論を理性的な討論で導き出せるはずだと想定する。しかし完全に正しい結論など不可能である。最も合理的であろうとすればするほど合理性は遠ざかってしまう。この時、合理性は絶対の高みに遠ざかって人間をそれに向かって駆り立てる理想と化す。合理的であろうとすることが合理性を絶対化し、合理性を不可能にする。

資本主義が停滞しているのも決して資本主義が失敗しているからではない。

資本主義はまさに正しく機能しようとするがゆえに停滞を余儀なくされる。なぜなら自らが神であってしまうから、自らが目的を達成してしまっているから。不在の何者かに向けての運動が、自らが不在の何者かを演じながら自らをそれに向かって駆り立てなくてはならなくなる。資本主義は不在の何者かを全て食いつくしてしまった時、その成長を止める。資本主義は終わりのないサーキットだ。自らが役者でありながら観客でなければならないような不可能性として。自らの手段が目的であるような同語反復として。